それでも3
七月下旬、伽羅の自室にて。
茹だるような暑さが樒や伽羅達の肌に纏わりつく。日差しの当たらない室内にでも、暑いことには変わりはない。弱っている母にはなおのこと辛いだろう、樒は横たわって眠る伽羅にゆっくりと扇子を扇いで風を送る。そよそよとした風を受けて、伽羅の長い髪が揺蕩うように動く姿が少し面白い。
「髪、長ぇから暑そー」
「そうだな。次に母さんが目を覚ましたら髪をまとめよう」
「だな、そうすっか」
樒と同じで伽羅の様子を見に来ていた梔子は伽羅の真横に座り、扇いで浮かぶ水色の一房を手に取りいじる。折角だから三つ編みにでもするか、何て呟く梔子を余所に樒は、母が風を不快に感じて起きてしまわないかと静かに様子を窺っていた。
今の所、嫌そうでも起きる気配も無いようだ。その姿に内心ほっ、と一息をつく。
眠っている伽羅の様子を見たり、部屋に勝手に置かせて貰っている迷宮の資料を見て議論したりと、各々自由に寛いでいた。
すると突如、りん、と澄んだ鈴の音が家全体に鳴り響く。
急に響く音でも、樒と梔子は何故なるか理由を分かっているため、どちらも驚かない。これは遠く離れにある交神の間で、この世と天界が繋がった際に生じる音。この音が鳴ったということは、つまり。
「….芥子、帰って来た?」
「お、伽羅おはよ」
家の何処に居ようとも、毎回繋がる度にこの鈴の音は大きく響く。そのせいで、眠っていた伽羅が目を覚ましてしまった。
朝飲む分の漢方を飲んで、少し調子が落ち着いて穏やかに寝ていたというのに….毎度毎度、こうも音を出さないと駄目なのだろうか。樒は心中で悪態を吐く。
繋がったということは、よっぽどのことでは無い限り伽羅の言う通り芥子が戻って来たのだろう。母としたらしい約束通り、まだ月が終わるには早い日にちだと言うのに、急いで帰って来たようだ。
「あー….ぐっすり眠ってたせいで起きるのがちょっとだるい。樒ー手ぇ貸してー」
「分かった」
「寝起きのせいで声がらがらだぜ? 相棒」
「分かってるから言わないでくれる? 相棒」
言うなと言わんばかりに渋い顔をする伽羅の手を取り体を支え、負担にならないように慎重に起き上がらせる。触れていると枯れ枝の如く細くなってしまった母の体がよく分かり、本当にもう灯火が切れる寸前だということを理解してしまう。
「伽羅、お前歩くのキツいだろ。俺が芥子を呼んでくるから、お前は樒と大人しく待ってろ」
「いいよ、自分で行く。それくらい自分でしたい」
そう言って立ち上がろうとして手に力を込める伽羅を、二人で手と肩を掴まえて無理矢理止める。ここ数日ほぼ寝たきりになっていた癖に、何故行けると思ったんだ。樒は伽羅を咎める気持ちで口を開く。
「もう少し自分の状態を理解してくれ。寝たきりだったのに急に歩ける訳ないだろう」
「え~……じゃあどっちか肩貸して。それならいいでしょ?」
「駄目だっての。それより芥子を連れてくる方が早いだろ?
ちょっと待って、…………ん?」
何処からかどたばたと大きな足音が聞こえる。その音は徐々に大きくなっており、おそらくこの伽羅の部屋近くまでやって来ているようだ。
「ねえ、足音近くなってきたよね?」
「そうだな。いったい誰が走ってんだよ」
「さあな。俺も分からない」
三人で不思議そうに顔を見合わせた後、梔子が誰が走っているのか確認する為に立ち上がった瞬間のこと。
足音の主が凄まじい早さで、風を入れるために僅かに開けていた襖の前に滑り込み勢いよく開け放った。
噂をすれば影、ということなのだろう。やってきたのは件の芥子だった。
走ったせいか彼女は肩で息をして短い髪を大きく揺らし、真っ直ぐに部屋の中央で布団の上にいる伽羅を見る。
「ッは、….伽羅‼︎」
「あ、芥子だ。おかえり」
心配と不安を浮かべて転がり込むように隣に駆け寄る芥子に、まるでちょっと近所から帰ってきた人に言うような気軽さで、伽羅は気楽に微笑んだ。
約束を守りきった伽羅を見ても、芥子はますます顔に不安の色を浮かべていく。ずっと一緒いた樒達でさえ、伽羅が倒れてから尚のこと細く青白くなっているのを理解しているのだ。暫く会っていなかった芥子には、より以前との違いを感じていることだろう。
そんな顔をしている芥子を他所に、立ち上がっていた梔子は、襖を少し閉め直したら座り直す。樒はというと、この暑い中恐らく交神の間から走ってきたであろう芥子に水分補給をさせるため、伽羅が漢方を飲む用に備え付けていたお茶を勝手に注いでいた。
「交神はどうだった? 稲荷ノ狐次郎はどんな神だったの?」
「凄ぇ全速力で走ってきたなー、帰ってすぐに誰かに伽羅のこと聞いたのか?」
「交神は、一応、滞りなくしたわ。
伽羅のことはイツ花が、私がそろそろ帰ってくるって天界から聞いてたみたいで、それで交神の間前で、待っていてくれたの。だから、帰ってすぐに知れたのよ……」
「芥子、取り敢えずお茶を飲め。走って疲れただろう」
「ありがとう樒、助かるわ….」
樒がお茶を手渡すと、走ったせいで喉が渇いていたのか芥子は一気に飲み干した。はあ、と呼吸を整えてかいた汗を袖で拭ぐっている妹を労わりたいのか、伽羅は樒が床に置いて放置していた扇子を拝借し、扇いで風を起こす。
誰の物か分かっていて、かつ相手が何も言ってこないと分かっているからと勝手に物を借りるふてぶてしさは母に似たのか。等と樒は内心思ったのだった。
「ちょっとは落ち着いた?」
「それなりにね。でも焦っていたとはいえ、襖を傷ませてごめんなさい….。
梔子も、襖を閉めてくれてありがとう」
「おう、どーいたしまして」
「いいよ、気にしないで。それよりも早く帰ってきたってことは、交神相手と交渉出来たってことなの?」
風を吹かせながら、交神の話を聞きたいらしい伽羅は再度どうだったかと口にする。しかし芥子は伽羅の状態が気になるのか、手で制すと憂いを帯びた顔付きになり心配そうに眉を下げていた。
「それは後で話すし、報告書にもまとめるわ。
それより….、伽羅。血を吐いて倒れたって本当なの?」
「うん。もう終わりが近いんだろうね〜」
梔子の手によって好きなように髪を結ばれつつも、伽羅は何事も無いかの如く軽く頷く。静かにこの場を観察していた樒には、いつも通りの伽羅と梔子と比べ、ますます悲しげに目を伏せる三人の様子がありありと分かった。
「おっし三つ編み完成! 伽羅、髪紐は何色がいいとかあるか?」
「お任せで〜」
「はいよ」
「….体調は、今はどうなのかしら」
こうやって流されることに慣れているのか、芥子は心配そうな面持ちのまま、お揃いの色合いな髪紐で盛り上がっている伽羅へ問いかける。
「死にかけだからね、若い頃に比べたら良くないよ。
でも、今は漢方が効いてるみたいで少しマシかな」
「そう、なのね……」
「ああもう、そんなに心配そうにしないでよ。
あ、そうだ。 恒春達も芥子が帰ってきていることに気づいているだろうし、顔を見せに行ったらどう? みんな芥子の帰りを楽しみに待っているからね」
「あいつらは澄の訓練をしてる筈だから多分外だぜ。三人とも芥子の帰りを心待ちしてたんだ、ちょっと行ってきてもいいんじゃねぇの?
な、樒」
「……ああ」
にこにこ笑顔のまま自身も暑くなってきたのか、伽羅は自分にも扇子を扇ぎながら芥子に勧める。それを援護するかのように声をあげる梔子に巻き込まれ、樒も遅れながら適当に同意の言葉を吐いた。
これ以上不安を吐露しても、流されるし変えることの出来ないものだからどうしようもないと芥子は思ったのか、分かったとやけに素直に頷いて立ち上がる。
「そうね……あの子達も気になるから、一度顔を出してくるわ。
……でも、その前に。伽羅」
「ん? なに?」
無理矢理に笑顔を作ったのか、くしゃりと困り眉で芥子は笑って、まだ言っていなかった言葉を紡ぐ。
「ただいま、伽羅。約束を果たせて、本当に良かった」
「….うん。おかえり、芥子。あたしも、約束を果たせて良かったよ」
何を言われるか想像ついておらず不思議そうにしていた伽羅は、その言葉を聞いて嬉しそうに笑った。
芥子はその返事を聞くと、直ぐに戻ってくると告げて部屋を去っていく。足音が遠のいて聞こえなくなってきた頃、伽羅が重力に従ってふっと後ろへと倒れる。
「は────良かった………!」
「 っ、母さん危ないだろうが!」
「布団があってもそれはやばいからな⁉︎」
「えー….これくらい大丈夫だって」
慌てて樒と梔子が支えたおかげで、伽羅が重力のままに倒れることは無かった。樒はばくばくと鳴る心臓の音を聞きながら、梔子と二人掛かりでそっと伽羅を布団へ寝かせる。
人の心臓を脅かした元凶の人物は危ないと思っていないのか、悪びれも無く布団の中で結ばれた髪を触っていた。
「二人共心配性過ぎ、枕があるんだから倒れても平気だって」
「もう若く無ぇってことをもっと自覚ようぜ?
今の伽羅の平気って言葉は信頼出来ねぇからな」
「右に同じく」
「あんた達さ、もっとあたしを信じよう⁇」
NOを突きつける樒たちに対して、伽羅はこれ見よがしにため息をついてみせた。
無理な要望をと樒が白い目をして伽羅の肩まで布団を掛けていると、同じ気持ちだったのか、人差し指を使って梔子が軽く彼女を小突く。
「あだっ!」
「ったく、相棒。帰ってきたばっかの芥子に心配かけたく無ぇのは分かるけど今は繕わなくていいんだよ。
せめておれや愛息子の前くらい、キツい時はキツいって言っていいんだぜ?」
真面目そうな顔つきで梔子は告げる。その言葉を受け、伽羅はバレていたのかとでも言いたげな微妙な顔をした。
いつも口端を吊り上げニヤけているような人間が偶にまともな顔をすると、こうもギャップが起きるものなのか。
そう面白く感じていると、伽羅は降参とばかりに両手を挙げた。本当は顔を作るのも苦しかったのだろうか、少し疲れが見える素の表情を浮かびあげる。
「……分かったよ。
ちょっと、少しだけ、芥子との約束を守れてほっとしてるからか力が抜けて入らないんだよね。そう言ってもらえると助かるよ」
「ああ。素直に教えてくれる方が有難いから、これからも苦しい時ははっきり教えてくれ。
それと母さん、疲れたんならまた眠ったらどうだ? 芥子が戻って来たら起こす」
「ううん、さっきまで充分眠ったから大丈夫。
それとあんた達、あたしの看病とかしなくていいんだよ。鍛錬や来月の予定についてとか、自分のことして良いんだからね?」
「そう言われると思って資料を勝手に置かせて貰ってるぜ?
この場でやるから問題無ぇよ」
文机の上に置いていた各迷宮の資料を梔子が取り出して見せつける。伽羅は資料を見てそう来たかと小さく笑うと、疲れたのかゆっくりと目を伏せた。
腹部で両手を重ね合わ、伽羅は悔いがないような穏やかで晴れやかな声色で呟き出す。
「芥子におかえりって言えたし、澄も恒春達が見てくれているし、樒も梔子も元気に生きてるし……もう後は死ぬだけだなあ」
「悔いは無いってやつか、相棒?」
少し屈んでかいた胡座に肘をつき、寂しさや悲しさもしくは親しみと慈しみ。さまざまな感情が混じったような、まだ大して生きていない樒には分からないごちゃ混ぜの表情を梔子は浮かべ、伽羅の目を覗き込んでいた。
(……成長して、梔子にとっての母みたいな人間がもし出来たら。俺にも何故梔子がこんな顔をしているか、分かるようになるのだろうか)
母と梔子が、相棒として互いを大切にしていることは知っている。
樒は別に、全く同じ関係性になれる人間が欲しいとは思ってはいない。
だが家族だけじゃない、それ以外の関係性や、大切に思い思われるような人間がもしが出来たら……。
そういうものに憧れる気持ちが、どんな時でも変わらずにお互いを大切にする母達を見ていたせいで、ほんの少しだけ、樒の中で芽生えていた。
伽羅は瞼を開けて目線だけで梔子を見ると、ううんと唸り出した。
どうやら、梔子の問いに異議があるらしい。
「う〜ん……実は一つあるんだよね、悔い。というか疑問?」
「え、なんだよ気になるな。
あるなら教えてくれ、そういうの遺して逝かれたら一生気になるんだよ。
ほら、樒もそう思わねぇ?」
「まあ……そうだな。言いたく無い内容でなければ、聞きたい」
「だろー?」
些細なことでも全てに気を配る気質な母のことだから、芥子の約束以外の生前整理はとっくに終わらせていたと樒は思っていた。だからこそ、残っている悔いが何なのか興味を引く。
同意見の梔子と急かしてみると、伽羅はその悔いもとい疑問が何なのか、その疑問の塊に向かって指をさして教えてくれた。
「ん?」
「うん」
「うん……っていやうんじゃ無ぇよ。詳しい説明をくれ」
伽羅は梔子に向かって指をさす。
梔子は自身でも指し示してみると、伽羅は頷いて肯定した。疑問の内容が梔子とは、一体どういう意味なのだろうか。詳細を求める梔子に続くように、樒はこくりと頷いて即す。
常に肌身離さず左耳に付けている耳飾りを手で触れながら、伽羅は顔だけ横を向けて樒達を見る。
「樒は….ううん、あたしと梔子以外もう誰も知らないか。
相棒は初対面からあたしに懐いてたんだよ。それも物凄────く、満面の笑みで飛びついてきたくらいに。
梔子の勢いが強くて、一緒に居るのがとても居心地が良かったせいで、こんなになるまで聞きそびれちゃったんだよね。
ね、梔子はどうして最初からあたしに好意的だったの?」
あんたのことだから、大した理由じゃないのかも知れないけど。
それでも知りたいと言わんばかりに、伽羅は顔の横付近に座っているせいで近くにあった梔子の着物の裾を引く。
(確かに俺は、この二人が最初から仲が良かったかどうかは知らない。
興味が無かったせいもあるが、良好なのが当たり前だったせいで、最初からそういうものだったと思い込んでいた。
……駄目だな、こういう思い込みはよくない)
当たり前をそのまま受け入れる精神は、このややこしい一族の一員である限りよくないだろう。
なんて、樒が一人自身のあり方を改めている間にもその場の空気は動いていく。
答えを求められた梔子は、裾を掴んでいた伽羅の手を掴んで握り出す。その行動を不思議に思って顔を上げた伽羅に、梔子は柔らかい笑みを見せた。
「それはなあ相棒、お前がおれに取って無二の人間足り得ると見込んでいたからだよ。
伽羅はずっとおれの母さんから伽羅に紹介したのが初対面だと思ってるが、実は違うんだぜ? 知ってたか?」
「え、そうなの? それは知らなかった……その前に会ってたっけ……?」
思い出せないのか目を彷徨わせる伽羅に、梔子は握っている手をおもむろに観察しながら続きを話す。
「いや、伽羅は知らなくて当然だと思うぜ。伽羅は延珠兄と二人で、沢山の資料を前に話し合ってたからな。
邪魔したらいけねぇと思って、その時は母さんとこっそりその場を去っていったんだよ。だから気づいてなくてもしょうがねぇよ」
「あー……確かにそんなことしていたような、していなかったような….
うん、ごめん。覚えてない」
「だろうな。
それでその時は先に荻兄達に紹介されに行って、母さんと二人で駄弁って時間潰して、そして最後に伽羅の元にまた行ったんだよ。
母さんと駄弁ってる時、色々と伽羅について話を聞いたりしてな?
それを元に、おれはおれの中で伽羅はそういう人間足り得るんじゃねえのーって思うようになったんだ」
「えええ……何でそうなったの? 海蘭姉どんな話したらそうなるの……?」
うんうんと思い出して懐かしそうにしている梔子とは真逆に、伽羅は遠い目になっていた。どういう話をしたら一人の人間が無二の人物足り得ると思うのか、樒にも全く分からない。母がそんな目になるのも頷ける。
自分が何かしら口を出すと会話が終わるかも知れない。それは面白く無いと感じた樒は、いつも通り静かに聞き役に回った。
「どんな話、なあ……。
伽羅が自分の大切な姉の大切な子とだとか、自分達が不甲斐ないせいで子供のままで居させてあげれなかったとか、幼い頃から当主として家族を引っ張ろうと頑張っているとか……そんな感じのこと言ってたな」
「……零ヶ月で当主就任したことを気にされてる気はそれとなくしてたけど、まさか死の間際にその事実を知れるとは思ってなかったよ」
「あ、やっべそこはオフレコが良かったか?」
「いやもう聞いちゃったからどうしようもないよね⁇」
(重たい言葉が幾つか出ているが、この二人のが軽いせいでそうでもない気持ちにさせられる……)
伽羅は握っていない手で裏拳をしてツッコミを入れ、された梔子はカラカラと笑ってごめんと謝る。
ていうかいつまで握ってんの、悪い離すタイミング見失ってた。と言う会話をして、二人は繋いだままだった手を離した。
……普段から距離感を気にしないような二人だったせいで何も感じていなかったが、ずっと繋いだまま話していたのは中々に愉快な光景だったのでは、樒はそう思った。
「そんな感じの話を聞いてな?
当時のおれと比べればそりゃデカいけど、それでもあんな小さい子供が家族を守る為に必死に勉強して重たい役目を背負うだなんて、すげぇヤツなんだなーってガキながら思ったんだよ。あいつは見所がありそうだって」
「伊予さん….伽羅の母さんがおれの母さんにとって大切だったように、梔子にとって伽羅がそうなったらいいねと言われてな。
それがトリガーだったのかさ、その言葉にまるで天啓を受けた気持ちになったんだ。まじで背中に雷でも落ちた感覚を覚えたんだよ」
「“そうなったら絶対楽しそうだ‼︎” ……って。
それにおれの直感が、まだ喋ったことも無かったが伽羅とはそうなれると告げてな?
だからおれは、おれの言い分に素直に従うことにしたんだよ」
「あ、あと思い違いされていたら嫌だから言うが、おれは親に言われたから仲良くしようとしたんじゃねぇよ。
伽羅が伽羅だったから仲良くなりたいと思ったし、なろうとしたんだ」
「んで、会って話してみたら結構ウマが合う人間だって知って。それでもっと仲良くなりてぇ遊びてぇって好きにやって思うがままにやって、それで何やかんや今に至る……ということだな」
要するに何かビビッと来たってことだ。親指を立てて良い笑顔で梔子は告げる。
軽いというか、素直というか、自由というか。隣で問いの答えを聞いていた樒は他人事故に、淡々と梔子のクセの強い話を表情筋を仕事させないで楽しく聞いていた。
この二人はある意味、正反対の気質を持っているのだろう。後々困らないように憂いが無いように、どんな物事も丁寧に根回しをして考察を重ねて動く気質の母と、後のことは後で考える、明日は明日の風が吹くと自分のしたいまま好きなように己の直感に従って動く気質の梔子。
ノリの良さは同じみたいだが、異なる気質が上手く噛み合ったから今の関係になったのかも知れない。
そんな相棒の言葉を受けて、伽羅は目を細めてくすくすと嬉しそうに笑った。横を向き続けて首が痛くなったのか、ゆっくりと天井に視線を移す。
「そっか、頑張って当主をやってたからあたしは梔子と相棒になれたのかあ。
そっか、そうなのかあ……すっっっっごく嬉しい。
今日ほど真剣に当主をやっていて良かったと思った日はないよ。
良いこと聞けて良かった」
「頑張りすぎて頑なになられた時は流石に困ったけどな〜」
「それは言わないでよ。そういう性格だから仕方が無いんですー」
「ははっ、それもそうか」
最後の悔いも無くなった。もう後は死ぬだけだとでも言うが如く、伽羅の顔も声も穏やかだった。梔子も覚悟が出来ているのか、そんな伽羅を受け入れて同じように優しい顔になっている。………が、駄目だ。樒はまだ、その空気を受け入れられない理由があった。
(…………何を勝手に全て済ませた気になっているんだ?
こっちは弱ってる母さんに芥子が戻る前に言うのは憚られるから、やっと言えると思ったんだが?)
母に伝えたいことがある。あの日、母が血を吐いた瞬間から、ずっと考えて考えて考え抜いて出した答えを。
まだ眠らせてたまるものか。悔いはないじゃない。終わらせるか、俺だって言いたいことがあるんだ。言わせる暇もなく死ぬなんて、誰が許すものか。俺はそんなこと認めない。
「待ってくれ」
「っえ?」
「ん、どうした?」
二人の手を強く掴み、流れていた穏やかな空気に無理やり食い込む。突然掴まれて驚く二人をよそに、樒はここで終わらせてたまるかと強い意思を持った目で伽羅を見る。
「待ってくれ。母さん、俺の話を聞いくれ。
苦しいだろうが、息子の最後の我儘を聞いてはくれ」
「え、うん……うん?
良いけど、どうしたの……?」
「おれもさっぱり分かんねぇが……一先ず聞こうぜ。伽羅ー、頑張って生きてろよー」
「そうだね、取り敢えず頑張って呼吸して生きるー……」
目を白黒させて戸惑う母と梔子を置いてけぼりにして、樒は二人から手を離すと姿勢を正した。しゃんと背筋を伸ばし、真っ直ぐに伽羅を見る。
今から言う言葉は、死に行く母にとって迷惑かも知れない。
だが、それがなんだというんだ。可愛い息子が精一杯考えた末の言葉だ。母は家族に甘い、俺に甘い。普段我儘を言わない俺からの言葉だ、迷惑だろうが押し通してやる。
「母さんが血を吐いて倒れたあの日から、俺は考えていたことがある」
「あー….あんたが澄をからかってあたしがぶっ倒れたあの日?」
「ああ。吐血して倒れる母さんに、俺はどうすれば良いか分からなかった。どうしてやればいいか、分からなかった」
あの日どうすることも出来ず動けなかったことを、樒は悔いていた。突然の出来事とは言え、もっと早く行動していれば母の苦しみを軽減出来たかも知れない。
今となっては“たられば”な話だが、悔いてしまう己の気持ちと、母を思う気持ちを蔑ろにしたく無い。
「樒、それはしょうがないよ。身内が大量吐血したら誰だってビビるって」
「ああ。
それにおれ達は呪われてんだ。元凶が悪いんだし、樒が自分を責めなくていいんだぜ?」
だから気にしなくていい。言外にそう告げる母と兄に、そんな言葉は不要だと言わんばかりに樒は首を振る。
そして少しだけ、沢山の家族の死を見続けた母と兄に、樒の何かが声なく叫びを上げた。
(それは、何でもないみたいに言うことじゃないだろう……!)
この叫びは、非凡をしょうがないと、そういうものだと受け入れてしまっている二人への悲哀の声だと。
人間という言葉に固執していた母でさえ、息子を慰める為とは言えそんなことを言ってしまうその事実。己は他者にも自身に対しても、感情や心の機微に疎い方だ。だがそんな自分が、思ってしまう程に。
(────死は、慣れていいモノじゃないだろう。
どうしてそんな悲しいことを、何でもないように言うんだ)
年長者となり幾人もの死を見たら、誰しもがこうなってしまうのだろうか。慣れないと、やっていけなくなるのだろうか。麻痺してしまうのだろうか。
樒は漠然と、この一面は似たく無いと、強く強く心に思った。
「それでも、だ。俺はあの日を悔いて考えた。
今すぐ朱点童子に挑むことは叶わない、母さんが死ぬことを変えられない。
だからせめて、少しでもいいから母さんに報いたいと思ったんだ」
「樒……」
「……そっかあ。
それで? 樒はどうしたいんだ?」
何て返せば良いのか分からないと言っていような、動揺した声色で伽羅は息子の名前を呼ぶ。そんな伽羅を気遣ってなのか、梔子は母の手をそっと掴んだ。そして寝たままでは自身の胴体横辺りまで離れている樒と喋りにくいだろうと、梔子は伽羅の上体を再び起こした。
起き上がったことで、はっきりと親子の視線がかち合う。
強く射抜く、祖父の額の第三の眼と同じ色をした赤い眼。動揺で揺れ動く、蛍が棲まう水辺のような澄んだ色の青い眼。その二対の目が交差し合う。
「俺なりに考えて出した報いは、共に在ること。
このまま死んで、あの世で見守るなんてつまらない思いはさせない。
それが俺に出来る、一番の報いだと結論付けた」
「ここに宣言する。俺は今年、必ず朱点童子を倒す。死んでようが家族の思い全て、俺は連れて行く。
そのために母さんの代わりとして、ずっと身に付けていたその耳飾りを貰ってもいいか?
呪いを解くのなら、俺は家族全員とも解く。解いてやる」
「……死後だろうと、関係ない。我儘だって分かっている。不毛な行為になる可能性も理解している。
疑り深い祖先達や母さんのお陰で、俺は朱点童子を倒したからと言って必ず解けるとは思ってい無い。無条件に天界も信頼していない。
それでも、元凶に挑める事実は変わらない。挑めるなら母さんだって、ぼろ鼠にしたいだろう? 」
「だから、百鬼伽羅も連れて行く。
ここまで俺や澄達一族を育て上げて、露払いをしてお膳立てをしてくれたのは貴女だ」
「これは次代当主として、息子として、三代目である母に報いたいんだ。
だから、頼む。ずっと身についていたその耳飾りを、貴方の代わりとして、連れて行きたい。……耳飾りを、俺に託して欲しいんだ」
言い切ると、樒は静かに平伏する。視界一面が目に優しい畳の色しか見えない。伽羅はどう答えるだろうか。畳しか見えない樒には、今二人がどうしているかは分からない。
(母さんの性格からして、息子がここまでして断る可能性は低いだろう。
それでも、絶対は無い)
己の打算的思考が、大丈夫だと告げている。もし駄目だったら時は、死後に勝手に手にすれば良い。
だがしかし、出来る限りそんな真似はしたくない。
緊張しているのか、指先に力が入ってる。強ばる手を見て時を過ぎるのを待つ。
…………一分、いや数分だったかも知れない。静かに、声を掛けられた。
「樒、顔を上げて?」
「……」
そっと顔を上げると、優しい顔をした伽羅と目があった。その様子からは拒絶の感情は見えなくて、樒は静かに安堵を覚える。
伽羅は嬉しそうに己を支える梔子に目をやると、掴まれた手を離して大げさに上下させながら自慢げに語り出す。
「ねえ聞いた相棒。うちの息子の言葉」
「勿論だ相棒。しっかりとこの耳で聞いたぜ?」
「あたしも連れて行ってくれるんだって。やったね、まだ暴れられるみたい」
「ああ、それは楽しみだな」
頬を緩ませて興奮気味に語る伽羅を、梔子は同じように嬉しそうに相槌を打つ。どうやら樒の言葉は、思った以上に好意的に汲み取って貰えたようだ。
一通り楽しそうに語り倒すと落ち着いたのか、伽羅は手を膝に下ろして樒へ向き直る。
片方の空いている手で耳飾りを外すと、そっと指で耳飾りの縁を撫でた。
「この耳飾りはね、樒のお祖父ちゃん….愛染院明丸が、下界に降りる時にお守り代わりにって渡してくれたんだ。
貰ったその日からずっと大事に付けていたから、最早あたしの一部みたいに感じてたな……これ」
かつて貰った日のことを思い出しているのか、伽羅は目を細めて優しい声色で語った。
樒の脳裏に、あの耳飾りが祖父の物だと教えて貰った日の記憶が蘇る。
「あたしは、樒の言葉が嬉しかった。だからこの耳飾りは樒にあげるよ。
でもね、一つだけ覚えておいて?」
「……」
耳飾りをぐっと軽く握って、伽羅は真剣な眼差しで樒を見据える。
それに呼応するように、樒は背筋を伸ばして見つめ返した。
「もし今後、この耳飾りが重荷に感じることがあったら。その時は遠慮せずに捨てて。
これは母として、先代当主として、両方の立場からの言葉だよ」
いい? と念押しするように伽羅は告げる。
樒は頷いて応えると、耳飾りを受け取るべく手を伸ばす。
「…………分かった。
ただそんなこと、絶対にしないと思うけどな」
「……うん、まあ、それならいいよ。
はい。折角だから付けて見せて?」
「ああ」
受け取って母と同じように左耳に付けてみると、樒は伽羅達に見せるため顔を横に向ける。
その様子を、伽羅と梔子の二人は嬉しそうに見つめていた。
「いいな、似合ってるぜ樒」
「ね、カッコいい」
「….こういうの付け慣れていないから、違和感があるな」
「大丈夫、いつも付けていたら直ぐに慣れるよ」
片耳に揺れる耳飾りが気になってつい触ってしまう。これまで耳飾りを付けるようなことが無かったせいで、樒は何度も手で触れていた。
そんな息子を見て伽羅は梔子と嬉しそうに微笑んでいた。だが沢山喋って疲れてしまったのか、支えてくれている梔子へと少し寄りかかる。
「疲れたか?」
「ちょっとね。横になりたいかも」
「そっか。なら芥子が戻って来るまで目ぇ瞑って休んでろ。
ちゃんと起こす。一旦手ぇ離して横にするぜ?」
「うん、お願い」
梔子は支えるために肩に置いていた手に神経を集中させて、伽羅がフラつかないように注意しながら横に寝かせそっと布団を掛け直す。
伽羅はお礼を口にすると、本当に疲れていたのか直ぐに目を閉じた。
「母さん、芥子が戻って来たら俺達が起こす。そのまま眠って休んでろ」
「そうだね、そうしようかな」
「戻ってきて樒の耳に伽羅の耳飾りがあるのを見たらビックリすんだろうな、あいつ」
「あはは、たしかに」
瞼を閉じたまま話している梔子の方に顔だけ向けて、伽羅は楽しそうに語る。
そのまましばらく樒達三人で何の変哲も無い穏やかな会話をし、自然と会話が途切れた時のこと。
独り言なのか、それとも語りかけたのか。どちらか判断が難しい位直ぐに空気に溶け込みそうな程小さな声で、伽羅は天井を見上げ、ぽつりと呟いた。
「……ね、あたしさ。
一族のため、明日のため……、そう思って色々我慢したし、捨ててきたよ」
再度何か言葉にしようと口を開いたが、伽羅は緩慢な動きで一文字に口を結び、樒達の方に顔を向ける。
向けられた顔には何の色も浮かんでおらず、ただただ綺麗に、ただただ確かに、己の息子と相棒の姿を反射して映し出す。
「ねえ、……今のあたし、何が残ってる?」
「……母さん」
これはきっと、伽羅がずっと思い続けた疑問なのだろう。
伽羅本人の口から同じことにならないようにと、母の苦悩を教えられていた樒はそう素直にそう感じ取った。
だが、感じ取れたからとしても。
(どんな言葉が、母さんの一番欲しい言葉なんだ?)
樒は即時に答えることが出来なかった。固まってしまった。
どう答えるか、自分なりの答えでもいいのだろうか。ぐっと唇を噛み締めて、刹那の間に様々な言葉を思い付いては消していく。息子として、次代として、消え去る伽羅にどう答えれば良いのかと。
(……最善が分からない。迂闊な発言をして、母さんを悲しませたくない)
大事だから、大切だから戸惑った。
機微は疎くとも、樒は頭は悪くない。月並みな言葉や、妥当そうな発言は喉元まで幾つか浮かび上がってはいる。
思考能力が悪くないゆえに、どれを言えばいいのか、それらが最良なのか分からなくなってしまうのだ。
「っ、……母さん」
何か、なんとか口にしようとした。
だがそれよりも早く、大事だから、大切だから動いたものがいた。
「伽羅、」
「ん……?」
────答えを出したのは、火色の赤だった。
伽羅の手を握って、梔子は口を開く。
「んなの、分かりきったことだろ。
それでも、色々捨ててもそれでも最後まで捨てれなかったモノ達が、少なくとも今伽羅の前に二つもあるだろうが。一族のためにおれ達を駒として使い捨て無かった、大事に抱えてきたから此処にあるんだろ。
勿論この部屋の外にも、目に見え無いようなモノでも、ちゃーんと伽羅に残ってるモノはあるぜ。おれが保証する」
自分の位置から見えるその横顔は、とても優しい顔で母で見つめていた。
出された答えは暖かくも力強くて、梔子が心からそう思っているという事実がありありと樒に伝わる。この兄は本心から言っているのだと。
梔子の言葉を受け、伽羅はじっと梔子の顔を見て様子を伺い、彼が心から思っていると理解すると安心したような顔で笑った。
そのままゆっくりと伽羅は瞳を閉じて、握られた手に顔を寄せる。そしてそっと呟いた。
「そっかあ……ああ、良かった」
その顔はとても、安らかだった。