百鬼一族 血脈の書

百鬼一族 血脈の書

当サイトは俺の屍を越えてゆけ リメイクのプレイ日記となります。

あたたかい かみさま

りいんと、視覚を閉じた暗闇の世界で耳から脳髄、爪の先まで響きわたる鈴の音。この音は、イツ花言っていた合図の音だ。己の前で舞い踊っていた彼女の気配が消え、肌に触れる空気はじわりと刺す暑さから心地の良いものへと変化していった。
一つ、二つ、三つと、心の中で十数え終わると、恒春は息を吐き出してゆっくりと瞼を開く。


「……場所は違っていても同じ天界だからかな。なんか、懐かしい感じがする」


交神の儀式の舞を受けている間ずっと座っていたせいか、数十分振りに立ち上った己の足は若干の痺れを訴えている。
だが今の恒春はそんな痺れよりも、己の瞳に映る壮厳な自然に見惚れるのに忙しかった。


誘導するが如く真っ直ぐに伸びた赤土の山道と、その左右には樹齢百年以上はありそうな立派な大樹達が幾重にも連なって佇んでいる。ここまで立派な大樹を生まれて初めて見た恒春は、ただただ感嘆の声を上げることしか出来なかった。


(どれくらいの年月を掛けたら、ここまで大きくなるんだろ….)


思わず手前にあった木を触ってみたところで、恒春は本来の目的を思い出して手を止めた。こんなことをする為に自分は天界に来たのでは無い、頭を左右に振ってズレた気持ちを切り替える。


自分のすべきことを頭の中で復唱する。
今から己は子孫を残す為に交神をする。交神する相手の神の名は木曽ノ春菜。イツ花曰く、木曽山脈に関係のある神らしい。だから恐らく、見るからに関係ありそうなこの山道の先に彼女は居るのだろう。


『いいですか恒春様。交神の儀でイツ花に出来ることは、お相手の神様の神域付近に一族の方を送ることだけ。
神域内は神々の居住区ですから、その中までお連れする力はイツ花には無いンです。
ですんでェ、天界に着いたらコレだ! って言うそれっぽい神域への道があるとは思うので、その道を進んで行ったら恐らく大丈夫です! はい!』


ぽい、や、とは思う、と言う言葉に些かの不安はあるが、イツ花の言葉通りならこの先の筈だ。ほんの少し湧き出てくる“もしこの道が間違いだったら….”何て弱気を押し退けて、恒春は一歩また一歩と、慎重に一本道になっている山道を歩み出した。


斜面になっている山道を進むのは中々鍛錬になりそうだ。奥に進むに連れて深まる緑や、時折顔を見せる山花に目移りすることも無く、恒春は真っ直ぐに伸びた道をただ只管に歩いて行く。
地面、木、草、時々花。代わり映えのほぼ無い道を進んでいると、まるでこの世に己一人だけと勘違いしてしまいそうな位に生き物の気配を感じないせいなのか、それともこの地がそういう何かを思い起こさせるモノでもあるせいか。
今現在己にしこりと化して蝕んでいる感情やそれを心配する周りの声が、何故か今、ふつふつと心の中で思い浮かんでは自分に囁いて来る。
まるで、いつまで見ないふりをするのと言っている様だ。


『———ねえ恒、私で良かったら話して? ここのところ、様子がいつもと違うのはどうして?』


大丈夫、何でもないから。気にしないで。


『隠してるつもりだろうけどさあ、悪ぃけどおれ達はそっと無視してやる時間が無いんだよ。教えてくれよ、何があったんだ?』


何のこと? 別に普通だよ。放って置いて。


『伽羅姉さまが亡くなる少し前くらい…、よね。兄さまが時々、暗い顔をする様になったの』


そう心配しなくて大丈夫だよ、悲しんでただけだから。でももう立ち直ってるよ。


この場にいない家族達の、自分を案じる声がする。実際に伝えられた言葉もあれば確かに彼等が言いそうな言葉もあったりと、多種多様な心配の声が次々と己に問いかけて行く。
それを振り払うが如く聞こえる声を何度も何度も拒絶して、恒春はかの神に会うために歩き続ける。……そうやって、ずっと拒絶し続けたせいだろうか。聞こえる声が、自分のものへと変化していた。自分の触れて欲しく無い軟いところを、それは執拗に剥き出しにして見せつけてくる。まるで、見て見ぬ振りをやめろと言っているかの様に。


『————家族の死への足音を間近に聞くまで死を理解出来ないヒトデナシ。
それなのに、生死を賭けて戦うのは好き? 生きるか死ぬかの綱渡りが大好き? 
そんなことが出来るのは生死を、命の尊さを理解していないからじゃないの。なあ、命をなんだと思ってるの?』


….うるさいな、そんなこと無い。オレは可笑しくない。確かに姉さんが死ぬまでは理解できていなかった。でも今はちゃんと、命は有限なモノなんだって分かってる。


『ウソを付くな。ずぅっと覚えているんだろ? 鬼を貫いた時のあの感触を、叩き潰した頭蓋の音を、切り裂いてまろび出る臓物の色を。
……思い出す度に湧き出る、その感情はなんだ?』


伽羅姉さんはオレを可笑しくないって言ってくれた。兄さんも芥子達も、きっとそう言ってくれる。オレだってそう思ってる。だから、オレは、


『可笑しくないって? ウソはダメだよ恒春。だってジブンが一番可笑しくないって信じきれていないクセに。
あーあ、皆が可哀想。こんなクズを心配するなんて、時間が勿体無いって思わない? 施しを与える価値も無いって思わない?
ねえ、そう思うだろ? 自分の本音をいつまで否定する!!!?』


ばしんと、音が立つ程強い力で両耳を塞ぐ。聞こえない、これで何も聞こえない。オレは普通だから何とも思わない、感じない、気にしない。
ゆっくりと息を吸い込み、ぐるぐると己の中で渦巻く感情と混ぜ合わせたら、少しずつ吐き出す。嫌なモノ全てが、一緒に吐き出されて消えて行くイメージをする。所詮気のせいだろうが、こうすると少しだけマシな気持ちになれる。


(一人だからかな、嫌なことばかり考えてしまう……落ち着け、落ち着こう)


両手を外し、いつの間にか強く閉じていた瞼も開けて前を見てみると、目の前には今まであった山道とは打って変わって大きな社がそこにあった。
こんな目前に来るまで分からなかっただなんて、と考え込んだまま歩いていた己の不注意さを恥じる。


此処が、かの神の神域なのだろうか。きょろきょろと辺りを見回してみると、斜め前にある柱が、離れた所にあるもう一本の柱と繋がっていることに気付いた。恒春は一歩後ろに下がって見たことで、これが何なのかを理解した。これは鳥居だ。近付き過ぎたせいで、ただの太い柱と勘違いしていたらしい。


「鳥居……ってことは社名が書いてある筈。名前、名前……」


更に数歩下がったことで、鳥居の中央額柱に飾られた神額が見えた。目を凝らして見ると、神額には達筆な文字で“木曽ノ春菜”と書かれている。良かった、自分は間違えずにかの神の社へ来れた様だ。


不安は杞憂でしか無かったのだ。その事実に肩の荷を下ろしていると、くすくすと軽やかに笑う声が、どこからか吹く風と共に耳に入る。
一体誰が、どこで笑っているのだろう。辺りを見回していると、今度はこっちよ、と己を呼ぶ声が聞こえた。どうやら声の主は、鳥居の向こうに居るらしい。奥の方から聞こえたから間違いないだろう。


「はじめまして、こんにちは。私を選んだ人」


その人……いいや、その神は、拝殿の壁に寄り掛かりにこりとこちらに向かって微笑んだ。牙の様な耳飾りと白い毛皮の帽子から覗く黒い襟足、木苺みたいな赤い綺麗な瞳は柔和に細められ、日焼け知らずの白い手は、おいでおいでと恒春を手招いている。


突然現れた彼女に驚いてしまったが、ここは彼女の領域だ。きっと自分が近くまで来た事に気付いて、それでやってきたのだろう。
そう己を納得させると、恒春は春菜の近くまで歩み寄る。交神相手である彼女を前にどこかおっかなびっくりとしながら、恒春は問いに答える為に口を開いた。


「….はじめまして。百鬼恒春です。木曽ノ春菜….様、ですよね?」
「ええそうよ。恒春、私のことは春菜と呼んで?
これから暫く共に居るというのに、そんなに固まっていられたら困るもの。勿論、敬語もいらないわ」


口元に手を当てて優しく笑う彼女の姿に、それじゃあ……と敬語も敬称も止めることを口にする。
己の母である春野鈴女も随分気さくな女神だったが、彼女もかなり話しやすい神である様に恒春は感じた。
芥子の母の東風吹姫、伽羅の父の愛染院明丸等は、自分達が想像する様な神様らしさがあったと聞いていた。彼女もそうだった場合を想定していた恒春は、春菜が想定外に気さくな神な事実に何処か安堵を覚える。気張っているのは、余り得意では無い。


自分はこれから一ヶ月ここに滞在するのかと、周りを見てみようと彼女から視線を逸らそうとした瞬間、目の前に居た春菜に手を取られた。
突然何を、と口にする暇も無く、彼女は拝殿を越え奥にある壮言な佇まいの本殿へと恒春の手を引いて連れて行った。


「ちょっと、あの、春菜……さん?! どうしたの!?」
「春菜でいいと言ったことをもう忘れたの? さん付けもダメよ」
「じゃ、じゃあ春菜! どうして急に歩き出したか教えて欲しいんだけどっ」


ばたばたとお互いに縺れながら靴を脱いで中へ入ったところで、春菜はやっと止まってくれた。
鳥居、拝殿と神社の作りをしていたからこの建物は本殿かと思っていたが、中はまるで人間の生活空間の様だ。現在自分達が居る板の間から廊下に続き、奥には畳の間と広がっているのが見える。
だが同じ生活する場と言っても、我が家とは比べ物にならない程に家具も床も天井も新品さらながらに真新しく、不思議と何処か壮言な空気を纏っていた。神である彼女の居住区だから、こう感じてしまうのだろうか。


此方を振り返った彼女は何故か気まずそうに恒春から視線をずらし、まるで見た目相応の少女の様な表情で、どうして走りだしたのかの理由を語り出す。


「……ごめんなさい。東風吹姫やくららから、貴方達一族との交流がとても楽しかったと聞いていたから……それで私も早く恒春と話がしたくて……。
ここまで登ってきて恒春は疲れているでしょう?
だから早く中に入って、沢山貴方と喋りたかったのよ」


でも何も言わずに走りだしたのは良くないわ、ごめんなさい。再度縮こまりながら謝る春菜に、恒春は思わず吹き出して笑った。何か、緊張していた自分が馬鹿みたいだ。何処か人間らしい行動を取るこの神様と、春菜とは仲良く出来そう。先の行動は、そう思わせるだけの安心感が不思議とあった。


肩を震わせて笑っていると、春菜は少し心外そうにそっぽを向いた。その態度もまた、まるで人の様だ。


「ふっふふ、ごめん、ちょっとツボに入った….!」
「……気が急いていたのは悪かったと思っているわ。でも笑うことはないでしょう?」
「うん、っごめ、ごめんね?」
「そう思っているのなら、いい加減笑うのをやめてちょうだい」


視線を合わせてくれないままでいる春菜は、笑いながら謝る恒春の態度のせいで更にそっぽを向いて行く。そんなところも……と思わなくもないが、これ以上機嫌を損ねてしまうのは、使命を持った百鬼家の一人としても、ただの男としても頂けない。
女の機嫌を損ねていいことは無い、これは短い生の中で姉に妹についでに兄に揉まれたせいで培った恒春の経験論だ。


だが、自分はそこまで気の利く人間では無い。こんな時どうやって機嫌を戻してもらえば良いのかだなんて、頭を捻っても思いつかない。


(素直に謝る? でも三度目の謝罪なんて薄っぺらいだろうし…即座に機嫌を良くして貰える様な術なんて分からないし……こういう時、兄さんならどうするんだろ。あの人社交力だけは無駄に高いから、参考に良いかも)


僅かの時間逡巡した結果、恒春は我が家でコミュ力の頂点に立つ兄の真似をすることを決めた。そう決めたら、自分や芥子達が怒ったり拗ねた時、梔子がいつもしていた動作があったことを思い出す。


ああ、そうか、そうだった。兄は怒る自分や芥子に対して良くしていた仕草があった。これをやれば良いのかも知れない……!


閃くことが出来た恒春は、直ぐに行動に起こす。
両腕を組んで明日の方向を見ている春菜の頭に手を乗せて、軽く数度撫でる。再度謝罪の言葉も付けることも忘れない。
突然撫でられた春菜はと言うと、そんなことをされると思っていなかったのか、目を見開いてぎこちなく恒春の方へと振り返った。……彼女はもしかして、自分が思う以上に表情豊かなのかも知れない。


「ッ!? な、恒春、どうして撫でているの….?」
「……ええっと、な、撫でたかったから….?
春菜、本当に笑ってごめんね。許してくれないかな……?」
「………いい、それはもういいわ….」


何故と聞かれても、兄の真似でなんて情けないことは言えない。そのせいで、こんな斜め上な回答しか出来ない。
これ以上聞かれても困る故に誤魔化しと反省を込めて撫でていると、ほぼ対等の位置に映る彼女の顔はみるみるうちに赤くなった。春菜はぼそりと小さな声で恒春の謝罪を受け入れると、今度は下を向いて顔を伏せてしまった。


(ダメだ、オレも恥ずかしくなってきた……平常心、平常心……!)


……そうも照れた態度を取られると、こっちも釣られてしまうのは仕方ないことだ。妹や弟等の家族ならともかくそれ以外の、ましてや異性の頭を撫でるなんて経験はこれが初めてなのだ。


「……」
「……」


お互いが赤くなってしまったせいで、妙な空気になってしまった。取り敢えず撫で続けているのは失礼だから、恒春は触り心地の良い春菜の帽子から手を退けた。
数秒程気まずい沈黙を過ごした後、お互いにぎこちなく、まるで油を刺していないブリキの様な動作で改めて顔を見合わせる。恐らく自分だけでなく彼女も、このまま固まっていてもどうしようもないと察したのだろう。


「ん゛んっ、……恒春」
「なに?」


春菜は仕切り直す様に咳き込むそぶりをすると、どう見ても無理矢理作った笑み浮かべて話しかけてきた。


「これは私個神がしたいことでしか無いけれど….私はね、恒春。交神するにあたって、お互いのことをよく知りたいと思っている。知った上で恒春と交神をしたいと考えているわ。
だから貴方にこの地を、私を知って欲しいと思って……….そ、それではしゃいでしまったのはとても反省しているのだけど」


思い出して顔が赤くなりそうなのか、春菜は一度口を閉ざして手で顔を軽く扇いだ。
ぱたぱたと数度扇いで落ち着いたらしい彼女は、次の言葉を待つ恒春の袖を引いて、少し前へと歩み出す。


「気を取り直して、まずは立ち話もなんだから、奥に入りましょう?
貴方と落ち着いて話す為に、場所と菓子を用意していたの。
ああそれと、恒春が一月過ごす上で必要そうな物も粗方揃えているわ。
ふふ、……私ね、本当に恒春と話すのが楽しみだったのよ?」


見た目相応の少女染みた破顔した笑みを浮かべると、春菜は再び恒春の袖を引いた。
何処かそわそわとしている様子を見るに、本当に自分が来るのを待ち遠しく思っていた様だ。……直球にそう告げられると、正直照れくさいものだ。


何故だか上手く顔を見れず、視線を逸らしながら恒春は袖を引かれていた腕を持ち上げて春菜に向かって手を差し出した。こうまで言ってくれたのだ。ならば何かしら自分もやらないと、楽しみにしてくれた彼女に釣り合わない。


春菜は持ち上げた時に引くのを止めた己の手と差し出された手を交互に見て、きょとんとした顔へと変化していく。


「恒春?」
「……オレも、春菜と同じ気持ちだよ。せっかく大勢いる神の中から、オレは君を選んだんだ。君は、それに応えてくれたんだ。だからオレも、君を知ってから子を得たいと思った。
…….だから….だからその、さ、」


彼女の前に出した手のひらが、背けている顔が熱い。二の句を早く告げないと、不審がられてしまう。だが、その言葉は羞恥のせいで喉から中々出て来てくれない。しかしこのまま目を合わせずに言うのはなおカッコ悪い……!


(向こうが歩み寄ってくれてるんだから! 良い神様じゃん! 気が合いそうな神様だ!
だからオレもそれなりの態度を取るべきなんだから!! ああもう早く言えよオレ!)


このままでは埒が明かない。意を決して春菜と視線を合わせると、彼女は本当に不思議そうに首を傾げていた。ごめん春菜、急に手を出して赤くなったりして。意味分からないよね。意識し過ぎだよね分かってる。……手汗をかいてきた気がしてきた。


「その、ね」
「? ええ、どうしたの」
「………手、つないで行こう、よ」
「……!」


言った。言い切った。声は震えていたし、段々目を合わせるのが気恥ずかしくて逸らしてしまったが、それでもしたいことをはっきりと口に出来た。
突然の恒春の言葉に驚いたのか、春菜は固まってしまった。だがそれでも、言えたのだから良しとしよう。


だが言えて達成感に満たされた恒春の脳内は、中々返答をくれず口を閉ざしている春菜の様子によって不安へと塗り潰される。もしかしてスベってしまったのだろうか……そんなまさか….。


(どうしたんだろ、何も言ってくれない。やっぱり歩み寄るとしても、手を繋ごうって言うのは可笑しかった……?
………そう、だよね、冷静に考えればただ歩けば良いだけだし、知る必要はあっても手を繋ぐ必要は無いよね……? 
どうしよう、完全にやらかした。今すぐこの場から走り去りたい….誰でもいいからオレを殺して….)


赤くしていた顔を青くしていったりと、忙しない表情変化を見せながら恒春は徐々に手を下に降ろそうとしたその時。そっとその手を、彼女が握ってくれた。
驚き共に春菜の顔を見ると、彼女は照れくさそうにはにかみ、確認するかの様に手の平を合わせて握った両手を見つめていた。


「こうやって誰かと手を繋ぐのは初めてだけど……恒春の手は、とても温かいのね」
「え、あっう、うん。生きてるし….?」
「ふふ、そうね。恒春は生きているから温かいのね」
「そ、だね……?」


恒春が生きている事実が面白かったのか、春菜は何度も手を握ったり撫でたりして楽しそうにしている。照れるからやめて欲しい様なそうじゃない様な、そんな複雑な気持ちになる。


「春菜。その、そろそろ中に入らない?」
「ああ、そうよね。何度も触ってごめんなさい。
用意した場所は恒春に生活して貰う予定の部屋に近いのよ。どちらも屋敷の奥の方だから、ついでに色々と案内するわ」


まずはこっちと手を引く春菜に連れられて、恒春は屋敷の案内を受けた。世話になる上で必要となる食事の場や風呂場、ついでに広間や炊事場等々、一ヶ月の間に行くことがありそうな場やそうでない場所も全て教えてくれた。案内している春菜が兎に角楽しそうで、可愛いな……なんて思ったのはここだけの話。


彼女の従者達の紹介も受けた。山に関する神である春菜の従者だからか、誰もかれも花や何かの枝をその身に付けていたが、そんなことよりも従者達のほぼ全員が自分達を興味深そうに見て来てことに疲れを覚えた。
……はっきりと比較出来る対象が母の春野鈴女の従者達しかいないが、そう言えばあそこの従者もこんな感じだった覚えがある。悪意は感じなかったが興味と好奇心でもみくちゃにされた。今ではいい思い出でだが、当時はとても疲れていた覚えがある。
従者とは皆こういう存在なのだろうか。……多分、紹介して貰った時も手を繋いだままだったのが大いに関係している気はしている。いや絶対これのせいだろう。


案内してくれたどの部屋も兎に角凄かった。まず広さからして自分の家や近所にある家と比べ物にならず、何処もかしこも美しく埃一つ落ちていないんじゃないかと思う程綺麗だった。こんな時に凄い、や広い、としか言えない己の語彙の無さが恨めしい。
我が家で一番博識な芥子だったら、きっともっと相応しい表現で表してくれことだろう。しかし恒春が言えることは、神の住む場所は凄い、くらいである。


そうして様々な部屋を案内して貰い、最後に漸く己が世話になる部屋と、彼女が用意してくれた場所へとやってきた。この場に関してはもう、圧巻の一言しか言えない程の美しさだった。


「わあ……!」
「どうかしら。気に入って貰えると嬉しいのだけど……」


用意された、これまた広い己の部屋の庭から覗く庭は、秋らしく赤々と萌える大きな紅葉の木達が生えており、地面は紅葉の葉によって真っ赤な絨毯を敷かれているかの様だった。
ここまで立派な紅葉を見たのは生まれて初めてだ。


「当たり前だろ。気に入らないなんて無理だよ!
ありがとう春菜、こんなに綺麗な景色は初めて見た!」
「っ本当? 良かった….」


これは家族達にいい土産話に出来そうだ。ほっと胸を撫で下ろしている春菜を余所に、恒春は縁側まで行くと食い入る様に外の景色を眺めた。
京の紅葉も確かに赴きがあって綺麗だったが、今が9月上旬と夏の名残りがある時期のせいでまだまばらに色がついている程度であった。きっと自分が地上に帰る頃には、京の紅葉も美しい朱色に変わっていることだろう。その時は見比べるのも楽しいかも知れない。


赤く染まった天の色を顔を上げて見渡していると、春菜が手を離して縁側から降りた。踏み石て屈んで何かしている姿を不思議に思って覗き込むと、屋敷に入る時に脱いだ筈の靴を彼女は履いていたのだった。春菜の隣には恒春の草履も踏み石に置いてある。


「その靴….それにその草履も。オレ達のだよね?」
「ええそうよ。案内の途中で、あの子達に履物を此処に置いておく様に頼んでいたの。話をする為に用意した場所はこの先だから。
さあ、行きましょう恒春」


菓子もあの子達が用意してくれていると思うわ。靴を履き終えて踏み石を降りた春菜は、再び繋ぐ為に恒春に手を差し出した。
また手を繋ぐという行為に気恥ずかしさを覚えつつも、恒春は彼女を待たせない為にも慌てながら草履を履き、また春菜と手の平を合わせて繋いだ。二人の視線の高さはそう変わらないのに、やはり異性だからか、繋いだ彼女の手は自分よりも小さい。


「縁側からは見えなかったけど、ほら、あそこ。東屋があるでしょう?
あそこから見える景色もまた一等良いの」


春菜が指さした先には、五角形の屋根の東屋が見える。なるほど、庭に降りて少し歩いたところにある故に見えなかった様だ。
手を引かれ、東屋に入り春菜と隣り合って長椅子に座る。椅子の前に設置されている長方形の机にはお茶と団子が二人分置かれていた。お茶は淹れたばかりであることを証明するかの様に熱い湯気を出していて、手に取り不躾ながら指先で触れた団子もまだ軟らかい。恒春達が来る直前にでも用意したのだろうか。


此処までずっと歩いていたのもあって、恒春は正直小腹が空いていた。春菜と繋いでいた手を解き、自分の為に用意された三色団子二本のうち手にしていた一本を一口食べてみる。流石神の領域の食べ物だからか、頬が落ちそうな位に美味い。
その食べた幸福感で顔が緩みそうになるのを堪えながら咀嚼していると、隣に居る彼女にじっと見られていた気配に気付いた。


「……無視して団子に夢中になったりしてごめん」
「いいえ、恒春が美味しそうに食べている姿を見るのはとても楽しいわ。折角恒春の為に用意した物なんだから、何だったら私の団子も食べる?」
「そんな食い意地の張ったマネはしないよ….」
「あら、そう?」
「うん。その団子は春菜が食べて.…」


面白そうに此方に団子を向けていた春菜は、そのまま自分の口の中へ一つ放り込む。口元に手を添えて行儀良く食べている彼女の隣で、恒春は一本食べ終えるとお茶を飲んでほっと一息ついた。
まだ一日が終わるまで時間が随分あると言うのに、この神域で見たもの出たもの全てが印象的だったせいで、もうまる一日分のやる事を全て終えた様な気持ちになってしまう。


(ってダメだ、これから沢山お互いの話をするんだから。しっかりしろ、オレ)


落ち着いて緩みそうになった己を引き締める為に、恒春は隣に座っている春菜に変に思われない様小さく深呼吸をして背筋を伸ばした。急に姿勢を良くしたことを不思議に感じていないか春菜の様子を盗み見ると、彼女はまた楽しそうにじっと恒春を見詰めている。
先程や今といい、そんなに自分は見ていて面白いのだろうか.…?


「春菜、勘違いだったら悪いんだけどさ」
「ん? 何かしら?」
「視線を感じるというか….オレ、そんなに見てて面白い?」
「……私、恒春が気にする程見ていたの?」


頷いて肯定すると、春菜は照れくさそうに頬を手を当てた。彼女はそれを誤魔化す様にはにかむと、何故恒春を見ていたかの理由を話し出した。


「不躾にじろじろ見てごめんなさい。恒春が本当に私の隣に居るのが何だか不思議な心地で……それで無意識に見ていたのだと思うわ」
「ううん、気にしてないよ。それより、オレが隣に居ることって不思議な感じなの?」
「ええ、私にとっては。
……..私はね、恒春。恒春が私を交神相手と選んでから、よく貴方を見ていたのよ。
だから上からでは無く隣に居る事実に少しだけ、不思議な気持ちになってしまうの」


嬉しそうに笑う春菜とは裏腹に、恒春は思わず冷や汗が背筋に流れる感覚がした。見ていたとは、一体どこら辺を見ていたというのだろう……?


恒春が春菜を相手として決めたのは月の初め。それから色々と準備をして数日経ち、今日やっと交神の為に彼女の元にやってきた。恐らく一日二日以上は見られていた筈で……ここ最近の己の様子を振り返り、変なことをしていなかっただろうかと頭を巡らせる。


思考を巡らせる為に、言葉を返す余裕の無くなった恒春。それを見て春菜は、自分がしたことで不快な気持ちにしてしまったのかと不安そうに眉を下げた。


「その、恒春、」
「(最近オレは何してたっけ普段通りだったよねそうだきっとそ….)へ?
あ、何かな?」
「ごめんなさい。ずっと見られていただなんて、不快だったでしょう….?」


春菜はしゅんと縮こまりながら謝った。恒春は慌てて手で制止させると、そんなことは無いと告げる為に口を開く。


「不快になんて思ってないよ。ただ単に、春菜が見ている間に変なことをしているかを気にしていただけ。だから謝らないで?」
「そう、なの……?」
「うん。だいたい、天界の神々がオレ達を見てることがあるなんて知ってるからさ。だからどうとも思わないよ」


見られている事実を認識したのは、確か初代だっただろうか。それとも二代目達だっただろうか。かつて交神の為に天界に行った祖先の誰かが、我々一族を余興として見ている神や、ただ純粋に見守る神が居ると言う事実を持って帰ってきた。
それが本当かどうかは、恒春には分からない。だがかつて幼き日に母の元で暮らしていた頃、恒春は母と共に地上に居る家族を上から見たことがあった。今を生きている家族達の中にも、親の神の元で地上に生きる人々を見せて貰った者が何人か居る。


だからまあ、“祖先が言っていた言葉は本当の可能性は高いのでは?”程度に恒春は考えいている。


春菜に見られていたことについては、これから交神する相手な彼女に見られても恥ずかしくない生活を送っていたかどうかは気にしているが、見ていた事実についてはそこまで気にしていないのだ。そこは間違えないで欲しい。
その事実を懇々と春菜に説明すると、彼女は安心したのか、ほっとした顔をして見せた。


「そう、それなら良かった….」
「本当に平気だからね。
….それよりも、オレは君から見て変なことはしてなかった? そこだけが不安なんだ」
「いいえ? 何も変に思うことはしていなかったわ」
「本当? あー良かった….」


人心地が付いて肩を下ろすと、恒春は少し温くなったお茶を飲みもう一本の団子を食べた。うん、やはりどちらも美味しい。
横でお茶を飲んでいた春菜は、恒春が団子を一つ食べ終えたの見計らい、そわそわと楽しそうに話し掛けて来た。


「ねえ、恒春。お茶も飲んでお菓子も食べたのだから、少しは休息は取れた?」
「え? そうだね、凄く美味しいし景色は綺麗だし……おかげで、疲れは吹き飛んじゃったかも」


冗談ぽく大げさにそう言うと、春菜は更にそわそわとし始めた。彼女は目を光らせて、それじゃあ….と此処に来た本題をやっと話しましょうと口にする。


「じゃあ沢山、沢山貴方の話を聞いてもいい?」
「いいよ。でも勿論、オレだけじゃなくて春菜も話してね」
「ええ、分かっているわ。
それじゃあ、まずは恒春の話を聞いても? 
此処からも見ていたけど、恒春の視点から、恒春のことを知りたいの」


きらきらと目を輝かせて、春菜は恒春のことを教えてれくれと言う。真っ直ぐに自分のことを知りたいと言われるのは、やっぱり少し照れ臭い。でも、悪い気はしない。


「分かったよ。でも自分のことって、どんなことを話せばいいのかな….改めて考えると、何だか難しいね」
「ふふ、そうね。私も貴方と話しているうちに、何を話すか考えておかないといけないわね。
最初は….そうね、まずは恒春の家族について教えて? 家族について知れたら、その中で育った恒春についても、きっともっと知れると思うから」


“ねえ、恒春の家族はどんな人達なの?”、春菜は両手を胸にあてて、今か今かと恒春が話し出すのを待っている。
期待する話を出来るかは正直不安だ。だが自分を知って貰う為にも、恒春は脚色が入らない様に気を付けながらも、見て、聞いて、話して、そうやって共に過ごして来た家族につてい語った。





「—————……へえ、春菜の山々にはそんなに沢山植物が咲くんだ。きっと綺麗だんだろうね」
「時々で見頃の花は様々だけど、どれもとても美しいのよ」
「凄く自信満々だね。いいな、春菜がそこまで言う程美しいのなら、もしオレが生きているうちに呪いが解けれたら見に行きたいな」
「……ええ、その時は絶対に歓迎するわ。」
「あはは。うん、もし解けたら行くよ。約束する」


本当に、彼女は不思議な存在だ。人間で無い、自分の呪いを知っているが家族でも無い、人知を超えた神という生き物。恒春の事情を理解しているが近しい存在で無いのと、彼女自身の気質が己に合っているからか。気が付けばもしも、何て不確かな口約束をしてしまう程に心を許していた。


もう何時間この場で話しているのだろうか。ここには時計が無いから、紅葉の隙間から覗く日差しで計らないといけない。恐らくだが二、三時間は喋っていたと思われる。
自分の話をした、春菜の話もした。互いの今までを、これからの一月何をしたいかを、沢山沢山語り合った。此処の所悩みや自己嫌悪に暮れることが多かったせいか、こんなに楽しいのは久しぶりに感じる。


大いに話に花を咲かせてはお茶を飲んで一息を吐く。何度それを繰り返したか分からなくなった時のこと、春菜は飲み干した湯呑を膝の上でぎゅっと握り、ぽつりと呟いた。


「……ねえ、恒春。教えて欲しいことがあるの」
「教えて欲しいこと? なに?」


何だろうとぼうっとしている自分に対して、春菜は何処か緊張した面持ちでゆっくりと、その口を開いた。


「此処から恒春を見ていた時からね、ずっと思っていたことがあるの。
……それは恒春にとって踏み込まれたくない問題かも知れない。
だけど私は、はこうやって貴方と話すうちに、 見ていた時よりも更に貴方に惹かれたの」
「ぅえ゙!?」


さらっと凄く心臓に悪い発言をされて、恒春の顔を一気に真っ赤に変化する。だが春菜は凄い発言をしている自覚が無いのか何なのか、神妙な顔のまま恒春を気にすること無く続きの言葉を紡ぐ。


「家族が好きで、人を思いやることが出来て、でも少しいじっぱりになることもある、そんな愛おしい貴方に。
……恒春が地上で、顔を曇らせている姿を何度も見たわ。家族から心配されている姿も。
私は、貴方が何か悩んでいることを知っている。出会って一日も経っていない存在に言いたく無いでしょう。
でも、だからこそ。私は恒春ととても近しい存在じゃない、一月限りの関係で、同じ人でも無く神よ。そんな存在だからこそ、打ち明けてみるのに丁度いいと思うの」


息を付き一度言葉を区切ると、春菜は胸元を握り締めて、意を決したかの様に真っ直ぐと恒春と視線を交わらせた。


「だから教えて欲しいの、恒春が何に悩んでいるのかを。お節介でも迷惑でも、私は貴方の力になりたいから」


言い連ねる全てに、恒春への思いやりが見える。だが恒春は己の弱さを知られていたことへの動揺が大きく、目を見開くことしか出来なかった。
どくり、心臓が大きく脈打つ音が聞こえた。春菜が覗いていたと教えてくれた時からもしかしてと思う気持ちがあったが……嫌な予感程、当たるモノは無いらしい。知られたくなかった、知られたくなんてなかった。自分の薄暗いところに、踏み込まないで欲しかった。


知られていたことへの焦りと後ろ暗さが顔に出ていたのか、春菜は湯呑を机に置くと心配そうに恒春の顔を覗き込んできた。やめてくれ、見ないでくれ。ほんの少し前まで浮かれていた気持ちは全て消え去り、今はただただ自分を見て欲しく無くて、覗き込む彼女を手で制す。


「……ごめん、見ないで」
「恒春….」


制していない方の手で顔を覆いながら、恒春は拒絶の言葉を吐く。顔を覆っているせいで見えはしなかったが、服の擦れる音から春菜が覗きこむのを止めてくれたことが分かった。


(……落ち着け、落ち着こう。突然こんな態度を取られて、春菜が困ってしまうだろ。落ち着くんだ)


落ち着けと何度も心の中で唱えると、恒春は覆っていた手を離し、春菜に向って下手くそな笑顔を作って見せた。


「….うん、大丈夫。変な態度を取ってしまってごめんね?」
「いいえ、謝らないで」


安心させる為か、殊更に優しく気にするなと言う春菜に恒春は何て返せばいいか分からなくなる。自分はこの優しい女神にここまでして貰う価値はあるのか、と。


(春菜はこんなオレをい、愛おしいって……そこまで評価される様な凄い人じゃないのに、ダメな奴なのに。
….でも、そんなこと無いって決定付けてしまったら、春菜の見る目が無いことになるよね。それは、ダメだ。絶対にダメ)


ではそんな優しい彼女が教えて欲しいと言っているのを、自分は無下にするのか? 思いやりを跳ね除けるのか? 恒春は己に問いかけた。


(出来る訳無い……いい、よね。話しても。ずっと抱えれる程、オレは強くないから。
ああでも、兄さんや芥子達の心配は拒否した癖に、オレは春菜の心配は受け取るのか。……ごめん兄さん、芥子、山茶花。えり好みしてごめんね)


胸中で地上に居る家族へ謝ると、意を決した恒春は春菜と向き直す。自分がどうするか考え込んでいる間も、彼女はじっと待っていてくれた。そのことへ感謝を覚えながら、恒春は自分の全てを曝け出す為に口を開く。


「オレは……—————————」






己の人生を振り返り、恒春は全て話した。醜い己の性根も、戦いに喜びを見出す異常さも、姉が死んでから理解する様な、死に怯える馬鹿らしい弱さも。全て全て、隠すつもりでいた何もかもをぶちまけた。


家族でも何でも無い所詮一度きりの逢瀬の相手だからか、はたまた彼女が同じ人の世界で生きていない別の生き物だからか、それとも自分が己の中で留めることが難しくなっていたからか。不思議に感じる程するりと、心中の泥達は自分の中から出て来てくれた。


「……そう。恒春、貴方は自分のことをそう思っているのね」


時に相槌を打ち耳を傾けて話を全て聞いた春菜は、全てしっかりと己の中に落とし込んだことを示す様に鷹揚に頷いて笑って見せた。
情けないことを話したせいで、失望を露わにされても可笑しく無いだろう。そう考えていた恒春は何故彼女がそんな態度を取るか分からず、首を傾げてしまう。
春菜は隣で不思議そうにしている恒春を見て、小さくくすりと笑った。そのまま視線を下ろし、自分の手と疑問符を浮かべている恒春の手を重ね、絡め合う。


「はっ?! え、な、なに……?」
「人間は、こうして触れ合うと安心すると聞いたことあがるわ。
どう? 落ち着いた?」
「落ち着くどころか心臓が飛び出そ……」
「そう? 離した方がいいのかしら 」
「あ、いや!? そのままのが嬉しいから!! そのままで!!」

強くこのままで良いと言う恒春の言葉に押され、春菜はその押しの強さに首を傾げながらも、繋いだ手を離さなかった。
自分の言動に恥ずかしさを覚えつつも、恒春は気持ちを切り替えさせてくれた春菜にお礼を言う。


「ありがと、確かに憂鬱な気持ちは吹き飛んだよ。
だからその、そのまま繋いでいてくれると嬉しい、かな……」


“その代わり凄くどきどきしてるんだけどね!!”と、繋いだせいでばくばくと鳴らす心臓の音と共に、恒春は内心絶叫する。自分はこんなにも単純な男だったのか。
己の指と絡み合うその手指は白く細く、ささくれも荒れも無い。少しでも力を込めたら折れるのでは無いか。そんな恐怖さえ覚えてしまう程、彼女の手は今まで見た誰の手よりも美しく華奢だった。


(芥子達の手と全然違う。神様だから、こんなに綺麗なのかな……)


まじまじと己の手を見ている恒春を見て、春菜は目を細めて笑った。自分の手がそんなに面白いのかとからかうと、慌てて何か言わなければとわたわたする恒春を見て、彼女はついに声をあげて笑い出した。


可笑しそうに肩を震わせる春菜に、恒春はそこまで笑わなくても良いのでは無いかと何処か不貞腐れた顔になる。
ひとしきり笑い終えると彼女は手を握る力少し強め、少し高い位置にある恒春の肩に寄りかかり擦り寄る。一方振り回され気味の恒春はと言うと、肩にのしかかる心地よい温度に対して大きく動揺し石像の如くびしりと固まった。


「は、春菜….っ!?」
「目映い」
「え……?」
「貴方は、目映いわ。恒春」


春菜は斜め上にある水色の瞳を覗き込んだ。発言の意図が分からなくて困惑している恒春に微笑みかけると、春菜は子守唄を紡ぐ様な優しい声で懇々と語り出す。


「私は木曽山脈の神として、今まで沢山の生命が私の中で育む姿を見守って来たわ。
それは動物や虫、植物や魚.…両の手では数えきれない程の命達が私の山で育ち、最後は土に帰っていった。勿論、人間だって何人も見守ったことがある」
「人間も….?」


オウム返しで出た恒春の言葉に、春菜はその通りだと頷いた。


「人間も、よ。ずっと、ずーっと見守ったわ。私という自我が産まれる前からも、きっと私は山と共に生きる生命を見守っていたのでしょうね。
薄っすらとだけど、私は大勢の命をと共に生きていたことを、自分を確立出来た瞬間から理解していたわ」


春菜は語りながら、そっと絡めた合った指を親指で優しく撫でていた。その動作と密着した体温にドギマギしそうになる。しかし理由は分からないが、彼女が話す内容を不思議と聞き逃してはいけない気がして、恒春は集中して言葉に耳を傾けた。


「そうやってずっとずっと色んな人間を何度も見ているとね、分かったことがあるの」


春菜は寄り掛かっていた肩から顔を上げて、恒春の顔を覗き込む。“一体何だと思う?”と軽やかな声色で尋ねてきた彼女に何と返せば良いか分からず、恒春はしどろもどろになってしまった。


そんな自分を落ち着かせる為なのか、春菜は繋いでいない方の手で恒春の頭を撫でて宥めかす。ただでさえ距離が近くて心臓が爆発しそうだった恒春は、突然のスキンシップに茹でタコの様に顔を赤くした。う、あ、と謎の単語しか発せなくなった恒春を見てくすくすと笑う。
一定のリズムで頭を撫で続けながら、春菜は子守唄の様に優しく言い聞かせるかの如く続きを口にする。


「時に川の様に、人間は様々な要因のせいで濁ったり凝ったりして、立ち行きいかなくなって燻ってしまうことがあるわ。
でも、それでもどろどろの心持ちでも、生きて命を繋いでいるとね?
人間は少しずつ上手に澱みを吐き出せる様になったり、そういう経験をしたからこそ深く美しい確固たる己を持てる様になる。勿論、皆が皆そうなれる訳では無いけれど……嫌で堪らなくなっても、泣き出したくなる位に失望しても、それでも諦めないで向き合おうとする子達は皆、目映い程に美しくて愛おしい」


恒春の肩から顔を上げて撫でる手を止めると、春菜は一拍置いて言った。


「恒春、今の貴方は濁ったり凝ったりしている最中なのよ。それを経ることで、きっと恒春は美しく逞しい人間へと成長するわ。
弱くていいの、楽しんでいいの、怯えていいの。私は貴方の感情を尊ぶわ。だってその感情を含めた全てが、私が惹かれた恒春の一部だもの。いつかきっと、恒春は今よりももっと素敵な人間になれるわ」


私はそう信じていると、彼女は眩しいモノを見る様な目で言った。
照れ隠しで春菜が撫でていた場所を少し触ってみながら、そういうモノなのかなと恒春は口にする。
自分は今の自分が嫌で仕方が無くて、気持ち悪いとすら思っているのに……こうも好意的に受け止められるなんて。少し、ほんの少しだけど。溜め込んでいた悩みを話したことで、春菜に自分の悩みを否定せず受け止めて貰ったことで、恒春は心が少しだけ軽くなったのを感じた。


「そういうモノよ。少なくとも、私はそう思っているわ」
「……そっか」
「ええ」


にこりと笑う春菜に釣られて、恒春は同じように口元に弧を描く。
……彼女が目映いと、美しいと、嫌に思っていたモノを肯定してくれるのなら。自分が嫌に思っている自分も、存在していいんだと安堵を覚えた。


(神様が、春菜が信じてくれたんだ。それなら、この弱さと一緒にもっと強くなりたいな。でないと信じてくれた春菜に悪いし。….燻ったままでいるのは、カッコ悪いよね)


恒春は心中で結論付けると今日一、いや、ここ最近で一番の憑き物が落ちたような晴れた顔になった。春菜は恒春のその変化を見て、どこか嬉しそうな表情へと変化する。
……ああそう言えば、聞いてくれた彼女にまだお礼を言っていない。


「春菜、ありがとう」
「ふふ、なんのことかしら? 私はただ、話をしただけよ」
「オレにとってはそれだけじゃ無かったから。だから、ありがとう」


晴れやかな笑顔を浮かべる恒春を見て、春菜は眩しそうに目を細める。
彼女は椅子から腰を上げると、不思議そうに見上げる恒春の耳元でそっと呟いた。


「こちらこそ、歩み寄ってくれてありがとう。恒春が交神相手で、本当に良かったわ。
これから一月、改めてよろしくね」


うん、よろしくね。顔を見合わせて、二人は軽やかに笑い合う。
最初は不安があったが、今ではそんな気持ちは微塵と無い。ああ、彼女を選んで本当に良かった。