眠りつく日 前編
『─────こうなる可能性は、伝えれられてたから分かってた。だから正直、解呪しなくてもそこまで落ち込みはしなかったよ。……少しも動揺してない、なんて言えない心境でもあるけどさ。
解けなかったせいで兄さんは灰になったし、家が暗い雰囲気になっちゃったし、オレ達も寿命が短いままだし。
それに…………ソテツ達に、まだ戦い続けて貰わないといけない。それが心苦しくて、申し訳なくて堪らないよ。
あーあ、オレ達の代で全部終わらせられたらよかったのにね。
間が悪い、都合が悪い、力は足りない、現実は非情、真実は残酷….……はは、ごめん。
どうしようも無いこと言ってるね、オレ。……聞かなかったことにして』
……恒春の、声がする。これは、梔子の遺体を燃やしていた最中に聞いた発言だ。葬儀に疲れて自身の膝で眠る息子のソテツを、痛ましい様な労る様な表情を流れる髪の隙間から覗かして。
恒春が優しく子の頭を撫でていたのを自分は、芥子は、よく覚えている。
「……ぇ」
『先陣切って鬼の前に立つのは、別に恐ろしくないわ。私にとって最も恐ろしいことは、私の大好きな人達を守れずに死なせてしまうことだから。そうなることが、一番恐ろしいの。
だから、この呪いは嫌い。この呪いを掛けた朱点童子も嫌い、大嫌い。だってどちらも、私の家族を奪っていくモノだもの。
倒せば解けるって可能性を見せつけて……でも私達がしたことは事態を悪化させただけで…………ねえ、姉さま。私ね、私達を都合のいい駒として見ていそうな神々も嫌いみたい。
えへへ、好き嫌いが激しくなってしまったわ。悪い子ね、私』
山茶花の、声がする。これは、朱点童子の皮を倒した日の夜、一心不乱に何時も刀を振る姿を見かねた時に聞いた発言だ。暗くてはっきりと視認した訳では無いが、きっと彼女は泣いていた。
笑ってはいたがその声が震えていたのを、芥子はよく覚えている。
「は……、」
『呪われたままであっても、天界が何を考えていようとも……黄川人が何をしようとも。俺は折れてやらない、屈してやったりなど決してしない。絶対に、何がなんでもしてやるものか。
思うことが無いと言ったら嘘になる……が、感傷に浸る暇は無い。
……お前達も当然、言いたいことや思うことはあるだろう。もう嫌だと、投げ出したいと思う者もいるだろう。それでも、.….…すまない、頼む。これからも、俺を支えて欲しい』
樒の声がする。これは、イツ花から天界最高神の言伝を聞いた直後の彼の発言だ。隔絶を感じて当惑する芥子達の前に、あの子は拳を握り歯を食いしばり、激情を抑え込みながら頭を下げた。
そんなことしなくていい、支えるに決まってる。そう何度も声をかけ、頭をあげてくれと言う芥子達に応えて漸く起きた彼の表情は、様々な感情が入り混ざっていて。
そんな彼の顔と、その横で何だか悲しそうに光る耳飾りのことを、芥子はよく覚えている。
「….ぇ、……上!」
『私は私が許せない。黄川人はもっと許せない。……あれ、ううん、違う。どっちも? いいやそれ以外も、だっけ?
もうね、何が許せないのか何に怒ってるのか何に憎んでるのか、あやふやなの。樒は今の私のこと、悲しんで苦しんでいるんだって言っていたけど….他の人から見てもそうなのかな?
あはは、大丈夫だよ。そんな顔をしないで、芥子姉さん。馬鹿げたことをして、皆に迷惑をかけて、それで樒とお話して。ちょっとだけど、心の整理は出来たから。
でもね、それでも……突然、抑えきれない程の感情が込み上げてくる時があるの。どうすれば、……..どうしたら、いいのかな。いっぱい、沢山、迷惑を掛けてばっかりで….わかんない、わからないよ。ごめん、ごめんね、ごめんなさい……』
澄の声がする。これは、大江山のあの事件から二月経ったある日の夜、一人月を見上げていた彼女が溢した発言だ。あの日、呪いは解けず、父である梔子は呪いによって死に絶えた。澄は心に深い傷を負い、不安定になってしまった。涙を流すことも増えて、この日も彼女は泣いていて。
この時小さな声で、幼子が親を求めるように、彼女が父の名前を呟いていたことを、芥子はよく覚えている。
「母上!!!! 起きてくれ!!」
「……っぁ、……せり….?」
目前に、己を焦った表情で見下ろす息子が居た。普段飄々とした顔している彼がこんな姿を見せるとは、珍しい。
それにしても、何故か肩が痛い気がする。少し動くだけでも気怠いこの身を押して肩を見ると、芹が自分の肩を強く掴んでいるのが見えた。納得した、通りで痛い訳である。
「っっっっは────…………あー良かった……」
芹は肩を掴む手を緩めながら、大きく脱力する。何故そんなにほっとしているのだろうか。
見たことがない息子の姿を眺めつつ、芥子は寝ぼけた頭を働かせて現状把握をするべく思考の海を潜った。どうして自分は、こうしているのだろう。
(….私、呪いのせいで満足に起きていられなくなってきて、それで寝ていたのよね。
駄目だわ、私。此処のところ、寝ぼけていることが増えてきてる)
寝て起きる度に、体が重く苦しくなっていく。
自分は伽羅みたく血を吐き倒れることや、梔子みたく死ぬ直前まで動き回れることは恐らく無い。父や叔母達の末期の状態も全員同じではなかった。書庫にあった先祖達の亡き様の記録もみるに、呪いの現れ方には個人差があるのだろう。
芥子が思考を働かせていると、芹が心配そうな顔でこちらを覗き込んだ。
いつも見せる笑顔は形を潜め、子供らしい表情をして心配そうな顔をしている。この様な芹を知っているのは、きっと自分とあの狐の神だけ。それが面映いとも、勿体ないとも感じてしまう。
「……母上、本当に大丈夫?
揺さぶっても全然起きなかったし、凄くぼけーっとしてるし……」
「大丈夫よ。ちょっと寝ぼけていただけだから。
心配してくれてありがとう、芹」
「それならいいんだけど……..少しでも体調に異変があったら、その時はちゃんと教えてね」
「ええ、わかったわ」
それと謝罪はいらないよ、謝って欲しくて心配したんじゃないのだから。
安堵のため息混じりに、芹は肩を撫で下ろした。
それもそうねと此方が苦笑い気味に返すと、尚のこと心配気な顔をされてしまった。若干呆れも混じっているような、そういう風にも見える表情だ。
(あ……芹のこの表情、あの神に似てる気がする)
先代の命にかげりが見えていた中での自身の交神。出来るだけはやく地上に戻りたい。そんなわがままを告げた己に対して、あの金色の神様もこんな顔をしていたような、そんな記憶がふと蘇った。もうずっと前の出来事だ、懐かしい。
心中でかつての記憶を思い返していると、芹が障子の向こう側を見ながら手を差し出した。
「ほら見て。朝は曇り空だったけど、晴れたんだよ。
ねえ母上。ずっと寝たままなのは体に悪いよ。よかったら日光浴でもしよう?」
つられて同じ方向を見てみると、暖かい光が障子越しに部屋を差していた。昨日一昨日はどんよりした雨空だったが、二日ぶりにお天道さまが顔を覗かせたらしい。
ぼうっと思い出の海をたゆたっていたせいで、全然外の様子に気づかなかった。こんにも心地よい日差しが入り込んでいるというのに。
親がこんな様子だと、確かに心配してしまうだろう。己のことながら、苦く笑いたい気持ちになる。
「そうね….芹の言う通り、お日様に当たりましょう。
久しぶりのいい天気だもの」
「それがいいよ。ただまだ春先で肌寒いから、羽織りを忘れずにね」
手を引かれて、随分と重く感じるようになった上体を起きあげる。軽く伸びをして寝て固まった体をほぐしていると、芹が自身の着ていた羽織りを脱いで肩にかけた。
「芹、私の上着は衣装箪笥の中にちゃんとあるわ。
それを羽織るから大丈夫よ、貴方が寒いでしょう」
「忘れたの母上。
僕はあの壊し屋の戦装束で真冬の大江山に登れるくらい丈夫なんだよ?
着るものが一枚減ったくらいで、風邪を引いたりしないよ」
「それでも、万が一の可能性があるでしょう?」
「だから僕は上着一枚無くても問題ないよ。それに箪笥の中にある冷たい羽織りよりも、さっきまで僕が着ていたそれのが暖かいだろう?」
「だけど……」
「あーもう、だけどもなにも無いから。
ほら、いいからさっさと立ち上がろうねー」
「あっ、え、ええ……!?」
幾ら丈夫だと知っていても、やはり心配してしまうのが親心。だがしかし芹は有無をいわせず立ち上がらせ、流れるように縁側へと連れていくのだった。
意のままに手を引かれて流されて、部屋を出て縁側に並びあって座った。
(芹は伽羅達とはまた違った我の強さがあるわよね……誰に似たのかしら。
私は絶対に違うでしょうし、もしかしてあの男神……?)
あれよあれと布団から連れ出されて、芥子は思わず空を仰いだ。
見上げた空は日差しが暖かく、柔らかい青空と白い雲が美しい。
「見ての通り、いい天気だよね。
しばらく雨が続きそうな気がしてたけど、晴れてよかったよ」
「そうね……」
にこにこ笑顔を横目に、芥子は空返事をした。
爆然とだが、羽織についてはもうなにも聞いてあげないとでも言いたげな雰囲気を感じる。大人しく着ていろ、ということなのだろう。
丈夫だと知っていても心配してしまうのが親心であり、性分なのだ。昔から心配性のきらいがあるのは、己でも分かっている。
きっと芹も、弱っている親を心配してしまう子心と良心があるのだろう。かつて自分も子の立場だったから、分かるものはある。
「……」
「ん? どうしたの母上、僕の顔をそんなに見て。なにかついてる?」
「いえ……なんでもないわ」
ふうん、そう。軽く返事をし、芹は先程の己の様に空を眺め出した。
そんな息子の横顔をこっそりと盗み見て、自分は湧き上がる感傷に正直に浸るのだった。
(いつか芹も、今の私みたいに親となって子供に心配される日がくるのかしら。
……何事も無ければそのいつかは、一年も経たずに来るのでしょうね)
あの日の恒春の顔を思い出す。先に逝った彼の炎に照らされた、弟の横顔を。
あの時の彼も、今の自分の様な気持ちだったのだろうか。
心配掛けない様に庭を見る振りをしつつ、密かに頭を振って思考を振り切る。こんなこと、考えても詮無いことだ。
「あ、そうだ。恒春兄上と山茶花姉上と、ソテツとイツ花の四人は家にいないよ。
買い物やお出かけとか、街に用があるみたい」
「そうなのね。それじゃあ我が家はいま、私達と樒と澄の四人だけなのね」
「うん。ちなみに樒様は書庫。次の討伐までに、今までの討伐記録を改めて見ておきたいんだって。いやーご立派だねえ」
相変わらず息子は樒を気に入っている様で、彼の話をする時はよく楽しそうな顔をする。
血を分けたとはいえ別の存在だからか、芹について理解出来ないことがそれなりにある。
だがそうだとしても、この子は自分の子供だ。子が楽しそうにしている姿を見るのは、微笑ましい。
……ただそれはそれとして、樒を敬い仰ぎ完全に仕える者としての姿勢を崩さないその理由が、未だに少し、いや全くこれっぽっちも理解できない。
『最高な主に仕える生涯って、僕は楽しいと思うんだよね』『それが自分にとって理想の主だったらさあ、もっと最高だよねえ』『鮮やかで見応えがあって感性の合う主とか……いやあ僕って環境や運に恵まれてるよね!』『人を大切に出来る人って素敵だよね。人は面白くて好きだから、そういう人は好感を覚えるよ』『呪われてるのもほら、ね? それとどう向き合うか次第だろう? どう見るかだろう? どう用いるかだろう? つまりはその人次第だ、面白いよね!』『人々を守ろうとしている樒様が、ひいてはこの家が、この一族が、僕はとっても大好きなんだよねえ…………!!』
以上、今まで芹が教えてくれた理由たちの抜粋である。思い返してみても、やっぱり己は、息子の気持ちがよく分からない。
(なんて言ったらいいのかしら……この子は確固たる価値観、いえ独自の世界……?
とにかく、強い思いがあるのよね….?)
「どうしたの母上、悩ましげな顔で僕を見て。
また思うことでも出来たの?」
「いえ….いいえ、なんでもないわ……」
「ふーん?
まあ、悩むのは母上の習性みたいなものだもんねえ」
「習性はやめてちょうだい。確かに否定できないけど……」
つい先程と似たような会話を繰り広げる己と息子。いつの間に自分達は時登りの笛を吹いたのだろうか。貴重な物なのに。
……疲れているのか、思考が可笑しくなっている気しかしない。
地味に息子の自身への評価に微妙な気持ちを覚え、訂正したい気持ちになる。しかし深追いしてしまったら、さらに悲しいことになるのは確実だろう。
気を取り直すため、芥子は別の話題を振ることにした。
「ええと……、芹」
「なに?」
「澄はどうしているのかしら。あの子も家にいるのでしょう?」
あの雪の日に起きた出来事のせいで、澄は心が弱っている。そんな彼女が放って置けなくて自分なりに気にかけていたのだが….……ここ最近は体にガタがきたせいで余裕がなく、あまり関われていない。
「….ああ、澄ちゃんなら樒様と同じで書庫だよ。
ただ彼女は書庫に用が無いからか、つまらなそう床に転がってたけどね」
そう教えてくれた息子の横顔は、どこか不機嫌そうな雰囲気を醸し出している。
そんな芹の姿と聞いたあの子の様子が引っかかり、思わず息子を凝視して首を傾げた。
「……用は無いのに書庫へ?」
「うん」
「それは……どうしてなのかしら?」
「あー….….それはねえ….」
常に浮かべている笑みを潜め、腕を組んで空を睨む。言い淀んでいる様には見えず、強いていうなら言うのが面倒くさい、という表現が今の彼に一番近い様に見える。
らしくも無い感情をこんなにも表す息子を見れる日が来るとは。
そういえば先月、芹が最近の澄の行動に関して当主に直見を述べたと耳にした。
それもあって芥子や恒春達も尚のこと意識して澄のことを見る様にしていたが……もしや、自分が伏せている間に何か起きたのか。
「……ちょっと母上、そんな顔しないで。
別に母上が心配する様なことは起きてないよ?」
だから難しい顔しないで、はい落ち着いて。芹はこちらを見るや苦笑いを浮かべ、問題ないと言いたげに軽く手を振っている。
自分はそんなにも心中が顔に出ていたのだろうか。苦い気持ちからそっと着物の裾で表情を隠そうとしていると、何処か気不味そうな顔を浮かべる芹が視界にうつる。
らしくなく吐き捨てる様にして、何故澄がそうしているのか教えてくれた。
そんな息子の顔はやはり、いつもとは違う表情を浮かべている。
「本当に心配することは何もないよ。
澄ちゃんが書庫に居たのは、また私が何かしでかしたら〜って不安だから、一人きりにならない様に樒様が調べ物している書庫に居たんだって。
自分で自分の保証が出来ないとか、情緒が大変なことになってるんだろうね……本当に、大変だ」
その時のことを思い返しているせいなのか、芹は話しながら腕を組み出し、上の手の人差し指で忙しなく二の腕を叩き出す。
苛立ちが動作に表れている。やはりこれは何かあったのでは。
言いたくなる気持ちを飲み込んで、芥子は静かに次の言葉を待った。
「ここのところの澄ちゃんはそういう感じで、よく樒様の側に居るんだよ。
何でも彼女曰く、“樒様なら絶対に遠慮も加減もせずにちゃんと止めてくれそうだから……”だって。
ふふ……信頼してるんだね、流石だよ」
「せ、芹……?」
「ああ、話していると余計なものまで思い出してきちゃったよ。
あはは、ふふ、これはよくないね」
どう声をかけるべきかとあぐねていると、芹ははあああと突如大きく息を吐き出して目蓋を閉じた。そして閉じたかと思いきや、即座にかっと大きく目を見開いて、どこか空を睨みつけ出した。
突飛な動作に芥子は固まることしかできない。芹、貴方はそんなことをする子だっただろうか。いつもの人を喰った笑みがとても剥がれている。というか貴方こそ情緒がどうしたの。
己の前では子供らしい側面を覗かせてくれることはあるが……どうやら、まだ自分が知らない息子の側面があったようだ。
そんな驚く芥子の態度は素知らぬ顔。
怒濤の勢いで、芹は膨大に積もっていたらしい思いの丈を空に向けて吐き出した。
「いや僕だって遠慮も加減もしないけど?」
「確かに僕はまだ小さいせいで力不足かもしれないけど?
君の背もまだ越せてないけど? 力比べでまだ君に勝ったことないけど?」
「それでも出来ない、まず選択肢に入れてすらなさそうなのは物凄く癪なんだけど?」
「不愉快や不満を通り越して癪でしかないんだけど?」
「槌を振り回しているんだよ? あんな重たい物を持って討伐では動いて走って回っているんだよ? だから腕力はそこそこあるのわかるよね?」
「もしかして余裕ないせいで分からないの? そういうことなの?
馬鹿なの? 馬鹿ってことでいいよね? いいよね馬鹿って思っていようか!」
「澄ちゃんはそんなつもり無いんだろうけどさあ….….無いのがタチ悪いとも思っているんだけどさあ……….侮られるのってすっっっっごく腹が立つよね……!!」
ああもう癪で堪らない!! 苛立ちで動作が雑になっている芹を他所に、芥子は感慨深い気持ちから開いた口が塞がらない状態に陥っていた。こんなにも感情をあらわにする息子は、初めて見たからだ。
(芹、そんな顔も出来たのね……)
どうやら思い出し怒りはまだ止まらないようで。
隣に座っている己は弱っているせいで、全盛期のツッコミ力は減っている。それに息子の初めて見せる姿に感慨深い気持ちになっているせいで、口を挟む気になれない。
故に今この場で、彼を堰き止めるものは何もないのだ。
「澄ちゃんだけじゃない、樒様もだよ!
年末のあの一件で大江山の後処理とか朝廷への説明とか新しい迷宮の調査とか!
仕事が大量に増えているのに!
そんな中でちょくちょく澄ちゃんの面倒も見て!」
「一族の主であるなら、僕達を上手く活用してもっと上手くやりなよ!」
「一人でなんでも出来る訳ないだろ? 自分でも以前言っていただろ?
それともなに、自分なら出来ますとでも言うつもり? いや馬鹿なの!?」
「言わないと分からないの? 視野狭窄しているの?
それとも僕には任せられらないと思っているの?」
「そういうの求めてないんだよ! 僕は欲してないんだよ!
僕は楽しくないんだよ! 僕は心躍らないんだよ!!」
「ああもう本当に、本当に腹立つ!! 樒様も澄ちゃんも!
二人して僕を侮るのも大概にしろ!!」
……思わず書庫のある方向に目をやってしまう。
もし件の二人に聞かれていたら、プライドの高い芹は大変なことになりそうだ。
(思いだし怒り、とはこのことね。
だんだん声が大きくなって……書庫に居る二人に聞こえていないわよね、大丈夫よ、ね….?)
そのことも気になるが、芹のこれはいちおう心配からの怒りとみていいのか、それとも独自の価値観からくる意識の高さ故の怒りとみればいいのか。どっちなのだろうか。
「……両方、いえ数割は前者かしら?」
「ん? 母上ごめん、なにか言った?」
「いいえなにも。気のせいじゃないかしら」
「そう? ……ま、いっか」
不思議そうに少し首を傾げるも、興味が無いのか芹が詮索してくることは無かった。
全てを言い終えたからか、隣の息子はそれはそれは清々しい顔になっていた。とても晴れやかで健やかな笑顔を浮かべている。
「はー……いやあ、やっぱり溜め込むのはよくないね。すっきりした。
ごめんね母上、急に大声出して。びっくりしただろう?」
「いいえ….その、確かに少し驚いてしまったけど……感情を整理する為に、時には吐き出すことは必要だもの。大丈夫よ」
「…………ごめん、吐き出したからちょっと冷静になってきた。
急に感情のままに好き勝手するのはよくないよね。
ごめんなさい、軽率だった」
「いいのよ、謝らないで。
ねえ芹、まだあるのならよかったら今全部吐いてしまいなさい。
私でよければ幾らでも聞くわよ?」
芥子の言葉を受け、芹は顎に手を当てて少しだけ考える素振りを見せた。だが即座に答えが出た様で、直ぐに当てていた手を外して首を振った。
「いいや大丈夫、気持ちだけ受け取っておくよ」
「本当? 我慢してないわよね?」
「本当だよ。
正直いまので全部吐き出したから、もう言いたいことないんだよね!」
憂いを少しも感じさせないくらい、とても爽やかな笑みを浮かべている。どうやら本当にもう溜めていた気持ちはないようだ。
その姿を見て、芥子はそっと胸を撫で下ろす。
百鬼芹という我が息子は常に柔和な笑顔を浮かべ、正直共感し難い考え方を持ち、人間という生き物が好きな、本心がどこにあるのか分かりづらい………だけど彼なりに家族に情は持ってはいるという、ある意味気難しい子だと芥子は認識していた。
しかし先程の出来事を踏まえて見てみると、今までの印象は自分は考えすぎで、本当の息子はもっと単純で分かりやすい子なのかも知れない。そんな気持ちが湧き上がってきた。
(聞かれる可能性があるのに、大きな声を出して大丈夫なのかしら……?
苛立っていて余裕が無かった? それともわざと聞かせるため?)
だがしかし、つい先ほど今まで認識していた息子像は誤りの可能性が浮上したばかりだ。それならば、前者の可能性もあり得るかも知れない。
「ん? 母上、そこの梅の木を見て。緑色の鳥がいるよ」
庭に植えてある梅の木の一つを、芹は指差す。あんな鳥は初めて見たと、物珍し気な表情をしている。
この子はまだ六ヶ月。もう約二年を生きている己と違い、まだ初めて見るものも多いのだろう。なにせ春を迎えるのもこれが初めてなのだ。
「ええっと……どこかしら」
「ほらあそこ、手前の梅の木。右上の方の花が結構咲いてる辺りだよ」
「んん….あ、分かったわ。あそこね!」
視線を彷徨わせつつも見つけた先に居たのは、鮮やかな緑の体毛が美しいメジロだった。
やっと見つけた鳥を眺めながら、芥子はなんの鳥なのか先程の問いに答えた。
「あれはメジロという鳥よ。春によく見る鳥で、甘い物が好物なの。
うちの梅が咲き出したから、きっと梅の蜜を吸いにきたのね」
「へえ……あれはメジロって言うんだね」
「ええ。ちなみに言うと、目のまわりが白いからメジロって名前なんですって」
「その通りすぎる名前だね。安直すぎじゃない?」
「ふふ、そうね。私もそう思うわ」
息子とする他愛ない会話が、とても楽しい。
暖かな日差しに包まれ穏やかに子供と話せるこのひと時が、幸せでたまらない。
混沌を極めている現在の京にて生きるものにしては、己はとても運がいい方なのだろう。恵まれているのだろう。
(……生まれてから今に至るまで、色々なことがあった。呪われた人生だったけれど、それでも私は幸せだったわ。
こんなにも穏やかに最期を迎えていいのかしら、なんて思うところもあるけど….いえ、この考えはよくないわね)
大江山の鬼を倒しても、呪いは終わらなかった。むしろ、おぞましくいたましい始まりを迎えてしまった。
だけど自分は一人先に、もうじき終わりを迎える。それが良いことなのか悪いことなのか、今の己にはわからない。……少し先にいった梔子は、どっちだったのだろうか。知る前にいった彼女なら、なんと答えたのだろうか。
向こうについたら聞いてみるのも良いかも知れないわ。なんて荒唐無稽な将来を夢描き、芥子はついゆるんだ口元を触った。
「ねえ見て母上。あそこ、上の辺り。同じのがいるよ」
「ええっと……あ、私も見つけたわ。
ふふ、どちらも可愛らしいわ」
「そうだね。かわいいかわいい」
庭の鑑賞をしながら、隣に座る息子を思う。置いていく家族を思う。
師走のあの日を境に、京の周辺や鬼だけでなく家族達も少し、変わった。
恒春と山茶花は後悔を口にして、前よりもたくましく在ろうとしている。
樒はひたすらに前を向き、こぼしたモノを見るのを意図的にやめてしまった。
澄は自身と元凶に怨嗟を吐き、涙に暮れて不安定になってしまった。
ソテツは……雰囲気の変わった家族を幼いながらも察し、周りをよく見る様になった気がする。
芹……….芹は、どうなのだろう。あの日以降、これといった話を自分は聞いていない。態度や言動も変わりない様に見えているが……大丈夫なのだろうか。
弱る自分に手一杯だったせいで、そこまで頭が回っていなかったことに芥子は気付いた。よくない、これはよろしく無いことだ。
(息子のことなのに….何をしているの、私。
……でも、あの出来事からもう三ヶ月も経っているわ。今更聞いていいのかしら?
蒸し返されたくない可能性もある。それに触れてほしくないと思っている場合や、とっくに心境の整理が終わっていることも……ああ駄目だわ。いろんな可能性を浮かべる前に、まずは落ち着きましょう)
芹に心配かけないよう、静かに深呼吸をして思考を落ちるかせる。
息をするだけで悲鳴をあげる体を無視し吸って吐くとふと、視界の端に何かを捉えた。
「あ….芹、隣の木を見て。ツバメがいるわ」
目に入ったのは、この時期ではまだ珍しい渡り鳥。
ぐるぐる思案していた思考を隅に退かし、恐らく未だ見たことがないだろう芹の肩を揺すって、手で指して鳥のことを伝える。
「ツバメ? ごめん、ツバメってどれのこと?
僕まだ見たことないんだ」
「あの左に伸びた枝にいる鳥よ。
顔と喉は赤で、全体は青と黒の鳥がいるでしょう?」
「えーと……….あっ、あれかな。
あの真ん中辺りにいる鳥? あのメジロに比べたら細長いの」
「ええその鳥よ。もう三月も下旬だから、ツバメもきたのね」
四月から五月にかけてよく見かける渡り鳥だと伝えると、一番乗りで来たかったのかもと口元を隠しながら芹は笑った。そうかもしれないわと、つられて自分も笑みが綻んだ。
今年我が家に一番に到来したツバメは、きっとこのツバメだろう。最期にまた、見ることができるとは。
(……….そうね、そう、最期になってしまうのよね。それなら….いい、決めたわ)
運よくまた見ることが叶ったツバメを見て、芥子は迷うのをやめて決意する。
もう死を待つことしか出来ぬ身だ。どんな思いを受け止めたとしても、すぐ墓場に持っていく身だ。だから芹に、余計なお世話を働こう。
「芹、一つ……聞いてもいいかしら」
「ん? いいよー。どうしたの?」
思わず固い声がでてしまった己とは対照的に、芹は軽い調子で芥子に応えてくれた。
踏み込む質問をしようとしているせいか、少しの緊張が自身に走っていくのが分かる。
今までの人生経験上、こういう時は早く聞いてしまった方が良いと理解している。だから芥子は間をおかず、すぐさま問いを口にした。